人間の始まり【アダムとイブ】の前40万年前のストーリー
人間の始まりはアダムとイブからですが、そのはるか前の今から44万5000年まえからのストーリー。
このお話は、アダムとイブの前40万年前からのお話です。
アダムとイブは試験管ベイビーでホモサピエンスが始まった
メソポタミア文明、シュメール文明
十二支族が日本に遣ってきた
日本人のルーツ、YAP遺伝子、宇宙人
日本とシュメールとの共通点
マナの壺、三種の神器
ではでは、はじまりはじまり
ニビル星人! 【アダムとイブは!! 試験管ベイビー!!!】 末裔は日本人
ニビル星は3.600年に一度太陽に戻ってくる。ニビル星人によりアダムとイブは試験管ベイビーとして創られ。その子孫は、はるか昔に日本に着ていたのです。
つまり、アダムとイブは試験管ベイビーで誕生し、その末裔は日本人と成るのです。
今も解読が進行中の、シュメールの跡地から出土した粘土板を読み解きをしていましたシッチン教授(1922年6月11日~2010年10月9日)は亡くなられたのですが、解読は続けられています。
このシュメールとは『混ぜ合わされし者』という意味があり、アダムとイブは試験管にて混ぜ合わされたので有る。
メソポタミア文明の主流で有る、5.600年前頃の文明のシュメール文明は、チグリスとユーフラテスの川との間のイラクの南部の緑豊かな広大な大地に発達した文明です。
4.000年前にアッいう間に姿を消しましたが、実は突然忽然と現れた文明です。
進化論には解釈できない人類の期間が有り、サルからの人類への進化が理解できない。他生物に比べて人類は突然に短い期間に途轍もない速さで進化した。人類史上の中でも謎が大きすぎる、シュメール神話を読み解くと、この空が完全一致するのです。
ダーウィン(1809年2月12日生~1882年4月19日没)は「人間が進化論で一番当てはまらないのです。」と語っている。
ダーウィンと共同の研究者、アルフレット・ウォレスは「猿から人間が誕生することなどない。」「人間は猿からの進化では生まれない。」と言っている。
メソポタミア文明史は、古代ギリシャ史、新旧聖書、ローマ文明史にも記されていません。
最も大きなの謎とされているのがシュメール文明の事なので、歴史の学問では、『シュメール問題』と呼び、解き明かしがたい難問中の難問となって折るので有ります。
この文明は、現代文明と同じ高い技術を用って歴史的に言えば瞬時に国家社会都市を建設しました。
シュメール人の人々はアヌンナキ集団となり神話と成り粘土版に書き残され、オックスフォード大学教授までもが「我々人類を創り出したのは、シュメール文明を作り出したのはアヌンナキ一族で間違いない。」と主張しています。
又、古代の宇宙飛行士説を唱える学者も多くいるのです。
高度な医学知識や高度な技術を持ち、卓越された法整備などを維持し、白内障手術も行っていました。
天文学知識も現代天文学の視点からも素晴しく誤差が無いのです。
太陽からの配列や距離など大きさでさえ記されていて、起動も書かれているのす。43憶Km以上地球より遠く離れた海王星の色彩や性質までも詳細に記されているのです。
暦は、日食や月食など多くの惑星の動向まで恐ろしいほど正確に想像しており、地球の地軸である2万5920年の歳差運動(さいさうんどう)の円を書き振れている周期も読み解いていたのです。
ニビル星のこと
ロシアの学者セガリア・シッチン(1922年6月11日~2010年10月9日)が読み解いているのです。
彼等の粘土板に残した太陽系図には、火星と木星の間を通過する現在とは違う楕円形の軌道を有した惑星『ニビル』が書き描かれており、3.600年をへて太陽を一周するニビル星は、太陽系内を南方より太陽系に入る軌道が有ると記されているのです。
火星と木星間の間に有ったいた『惑星ティアマト』と激突し、小惑星帯と地球とに分離し、彗星とを形成したのです。
地球は46億年まえにできたといわれています。
ある時、ニビルの月である一個と激突したティアマトは2つに分離したのです。
続いてニビル本体が衝突し、ティアマトの破片は小惑星帯となりました。
もう1個はニビル星の惑星の一個と再び激突し、新しい軌道に押し出されて、現存の地球となったのです。
シュメール文明
歴史の学問で世界で最も古いと言われているメソポタミア文明。チグリス川ユーフラテス川の間の肥沃な土地であるのです。
そのメソポタミア文明の中でも初期に当たる、5.800年~5.500年頃の間に繁栄したのがシュメール文明<なのです。
数多くの像が出土したシュメール文明の時代があり、シュメール人達を形を取った像は異常に目が巨大で宇宙人のようです。
シュメール文明は、イラク南部に築かれた文明、シュメール人によってメソポタミア文明の中核をなしており、疑問なのですがシュメール人というのは出所が理解できない人々でどの辺りから遣って来たのか判別していません。
有る時期に、急現したシュメール人は、その後においても人類文明に影響を経てゆく素晴しい現代科学と同じような高度な手法や高度な発明を次々と記しています。
彼らの膨大な発明により、シュメール以前の人類とその後の人類の生活は大きく変わってしまうのです。
1分が60秒、1時間が60分、この60進法もシュメールの人達の発明なのです。
12の倍の数、両手の指の10本という数も天文学も最小公倍数から出来ていると言われています。
このシュメール文明の跡地から数万の粘土板が発見されていて、文字が記されていて、今も読み解きが進められています。
その解釈は多くありますが、この解き明かされた文章をシュメール文書と言われています。
シュメール神話には、天空の神アヌを先頭として、多神の名前である、神の名前が記されているのです。
この神達をアヌンナキと呼び、神話の他においてもその時期の文明の単位を知る手がかりが残されています。
粘土版に記されているシュメール文章の解読の中でもゼカリアシッチン(1922~2010)が発表した文面は注目を集める事と成ります。
以下がそうです。
・天空の神々はニビル惑星という星から宇宙船に乗り遣ってきて、猿人であるネアンデルタール人と自分たちの遺伝子を組合わせて人間を作ったのです。
・遠くの星である肉眼では見ることのできない、冥王星や海王星について、既に理解が有ったとしか思えない点が数多くあります。
・ニネべから発見された粘土板から、ニネべ定数と言われる数多くの(195兆9552億)出土品が有るのです。
この数値などは、地球の歳差運動の周期やら、様々な惑星の公転周期でも割り切れるもので有った。
これは最も古い人類が最も先端知識である天文知識を有していたということになるのです。
現代の宗教でもこの様に信じる者が多いのですから、古代に同じような教えがあり、それを書きこむに当り粘土板を選んだとしても不思議もありません。
だが何処から来たのか理解しがたい、スーパーマンではないが何処からか突如として遣ってきて高度な文明を構築したシュメール人は、自分で自分達を「混ざり合わされた人」なのだと言っていたのです。つまり、ネアンデルタール人と二ビル星人のアヌンナキとを混ぜ合わせたという事です。
別の星から宇宙船に乗ってやって来た人々によって、猿人(ネアンデルタール人)と遺伝子を合成されて創造されたと信じていた、あまりにも唐突で夢多き話に魅了されます。
シッチン博士の説明の説明は
紀元前45万年前の長い戦いにてニビル星の大気が汚染され、生物の生命が危うくなりアヌンナキ一族は、ニビル星のオゾン補修の為、金の粒子のナノ粒子を探し求めて旅をし続けていたのです。
以前の時代からの大洪水を乗り越えてきて続いたシュメール人の歴史は、「シュメール王名表」にはっきりと記されているのです。
「王名表」には、「神世の代」「人の世の代」とに分類されております。
「神の時代」とは、アヌンナキ一族とアヌンナキ一族との間に生まれた人の子が地を納めた時代の事が記されています。
アヌンナキ一族は、シュメール文明の粘土板による解説では「天より地に降り来たりし者」という意味で、アヌンナキとはニビル惑星という星に住居する人達で、命の長さは30万年とか35万年にも成るといわれいます。
ニビル星は太陽の周りを楕円軌道しつつ3600年周期で移動し太陽を公転して回っている惑星なのです。
そのニビルから、アヌンナキ一族が地球に知的な生命として舞い降りて来ているのです。シュメールの人々に技術と知識を齎したということであります。
「人の時代」とは、エンリルの選出によって「人の王」が人間と神との仲立ちをした時代であり、「王権」とは天空神より下りてくるのです。
地(地球)に天(ニビル)の組織やシステムが表されたのです。「天から王の権力が下らされたとき、王権は今のエリドゥにあり。エリドゥにおいては、王はアルリムであり、地球の長さでいいますと2万8800年の長気において治めました。」
「王名表」の始まりはこのようなお話しで始まるのです。王族はアルリムによって長く続き、建設された都市国家が多く作られたのです。
ところが、その時「地球を大洪水が襲ったのです。」
大洪水の後、「天から王権が下され、王権はキシュへとなった」と記されています。
一般的に、大洪水後の時の流れを「有史時代」と呼び、王権に偏ることなく、古代シュメール物語を話しすることは出来ない。
王の権力があって、シュメール文明は文明や科学が発展したと言えるので有ります。
シュメールの文明の王権の力とは、アヌンナキ(地球総司令官)のエンリルの全権と、その王の権限による社会組織図が王制なのです。
現在の科学や文明が古代シュメール文明の優れた知恵により出来上がっており、政治体制についても、何万年もの時空を越えて現代まで受け継がれているのだ。
人類全てがシュメール文明を元としているのです。
44万5000年前のお話なし
44万5000年まえにおいては地球に人は居ませんでした、地球に自から生を得ていた動物や植物が存在していたころ、50人のアヌンナキ族がニビル惑星より地球に天降った。
指導者はエンキであったのです。
彼らの心の古里は「ニビル惑星」であったのです。
ニビル惑星より宇宙船であるUFOに乗り地球にやって来たのです。彼らは今のペルシャ湾に着水して来ました。
そして現在のイラクにあるペルシャ湾より上陸して、エリドゥ都市を創り上げたのです。
Earth(地球)の元がエリドゥEridouだったのです。
アヌンナキ一族は44万5000年前に地球に天降ってきました。
目的は金によるナノ粒子の取りだすことです、ニビル星の大気が弱くなりそのカバー作りをしニビルの大気と地熱とを守る為だったのであります。
太陽に戻ってきたニビル星は3600年に120回戻ってきて、ノアの洪水の時期であります、13000年前とほぼ計算が合うのです。
遡ればノアの大洪水は12.950年前となりまして、アヌンナキ一族がニビルから遣ってきてイラク南部のペルシャ湾に着水した年は444.950年前となりまして計算が実によくあうのです。
地球においての生活は
1日目
アヌンナキは地球の変化する空の色が編かしてゆき、夕日が赤色豊に染まり地平線に没していく光景に心奪われ驚いたのです。
ニビル星においては見ることがない景色で、呉れないに染められた景色であったからです。
そして暗闇が迫る夜がやって来ると、初じめての体験である暗黒に恐れおののきました。
そして、アッいう間に朝が来たので、彼らはあまりの速さに驚きました。
彼らは余りにも速い地球の1日の投影にすこぶる困惑しました。
これが、1日目である。
2日目
陸地と運河とを仕切り堤防を作成して境界とし、飲み水をどうにかしたのです。
3日目
植物や果物を食用になる者を選び採取しました。
4日目
粘土により家を建てたのです。
5日目
葦で船を作成し、水中に生育する物を調べ、上空を飛ぶ生物も調べました。
6日目
果物の園に生きている動物を調べ、地球上の動物たちの乱暴さを知り自分達であるアヌンナキ族を守るための柵を作った。
7日目 は休んだ。
聖書の原型
このシッチンが明確にした説は聖書の天地創造の初めに光有りきの7日間のお話しに獄似していて、シュメールの文章が聖書の原型に成ったような気がしますが、無いでしょうか。
旧約聖書の当初に天地創造が書かれて居ります。
この旧約聖書が仕上がったのは大部分がヘブライ語で記されており、3500年前頃となるのです。
現代版が出来上がったのは、0年から1.000年の間に仕上がったようです。
1日目 暗中にて、光をおつくりになり、昼夜が創られた。
2日目 神は大空をつくった。
3日目 大地を創造された、海もしあがり、植物を育成した。
4日目 太陽や月や星々を創造された。
5日目 魚と空を飛ぶ鳥をおつくりなられた。
6日目 家畜や獣をおつくりし、神にゴクニした人をつくった。
7日目 神は休すまれました。
アヌンナキ一族はエリドゥに住み着き、ペルシャ湾から金を取り出し生成し続けました。
ですが後にアフリカの彼方の方が金の保有量が多い事を知り、アフリカに移動して採掘した事が克明に書き残されているのです。
代表者はエンキでした。
エンリルが採掘の指揮者となり、南西アフリカに移動し金鉱を開き金塊の採掘を支持した。
シュメール神話の中でアヌンナキが明記したなか、神の世界においても明確な世代交代が有ることがもつとも興味深いところです。
シュメール神話が描写されている中で、アヌ代を初代として始まり、息子のエンリル、エンキの代、エンキの子ニヌルタとマルドゥクの時代まで記録されています。
ニビル星人の神と、人類の系統が記載されたシュメールの粘土板「王名表」においては、ニビル星の王アヌ様の以前に23代以上の世代が有ったことになつているのです。
ニビル星にて、最高決定機関で有る構成メンバーは12名となり全ての事はこの12名で決まることとなって居ました。オリンポスの12神は、このお話しが元となったとのことです。
紀元40万年にアヌンナキ達は南西アフリカに移動し、金を精製していました。イラク南部に、シュルパークやシパ―などの7国を建立し、金を船団で運搬しました。
アダマとティアマト(イブ)
アダマはアダム、ティアマトはイブだとされています、「エディンとは平野を意味します」という外から見えない柵の中に入れられて、このエディンである平野より出ると恐怖が襲ってくる、恐ろしいことが起こると教育された。
この穏やかなエディンはアダマとティアマトの観察設備であり、ビデオを通して彼らを監視し続けた。
多くのアヌンナキの人々がその珍しい生き物を見ようと、遠くよりやってきた。今でいうとまるで動物園のようなものでありました。
アダマとティアマトであるイブは頭は賢く学習能力が有ったため、監視は気をつけながら行われた。
生殖期間と能力
今度はティ・アマト(イブ)の細胞から取った細胞核と類人猿ネアンデルタール人の卵子から、7人の女性のアヌンナキ人の子宮で、7地球人女性達を生み出した。
先の7人の男子と今回の7人の女性をエディンに放置され、観察されていった。
森の木の陰などで行為を行う姿が見受けられた、だが、女子は子を出産せず増えていかなかった。子を宿す様子がないということが明らかになった。
アヌンナキ族とアダマとの違いを調べた、アヌンナキ一族の遺伝子と比較した。
アダムゥとティアマトの生殖細胞には性染色体が無く、22本であった。
そこでXXとXY染色体を加えることで繁殖が出来ると考えたニンギシュジッダは、エンキの肋骨からの性染色体を男性のアダマの肋骨に入れ、ニンマーの肋骨から取った性染色体をティ・アマトの肋骨に入れた。これにより、アダムゥとティ・アマトに子供が生まれた、成功したのである。
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『アジア人種のご先祖様 !! 』【ノアの方舟 ( 潜水艦 ) !!! 】
シッチン博士の話の続きは
アヌンナキと猿人ネアンデルタール人の交配種である人間は、帝王切開で誕生した。
こうして作りだされた人間は、エンキが支配する金山の労働者となったほか、エンリルの配下のエディンでも、別の人が農耕の仕事をした。
ちなみに「エディン」とは古代シュメール語で「平野」を意味するが、発音からも察するように「旧約聖書」の「エデンの園」であるのではなかろうか。
当時の人はアヌンナキと猿人ネアンデルタール人の交配種であったため、生殖能力を持たなかったが、その内アヌンナキのエンキは性能力をもった人間の作り出すのに成功しました。
「創世記」にて、このお話はエデンの園でアダムとイブが蛇によりそそのかされ禁断の実を食べる物語として語られるように成ったのです。蛇と言えば、遺伝子も螺旋状に成っており、くねくねとなって居ます、此れも又似通っています。
アダムとイブに子ができた。最初の子供達は男の子の双子たちであった。
長男はカ・イン(恐らく旧約聖書のカイン)、アバエル、アーベルで二男として生まれました、その次は女子でサティが生まれた。
二ヌルタがカ・インに農耕を教え導きました。
二男のアバエルに牧畜を教授し羊飼いにしたのは、マルドゥクだった。
ニビル星人は肉食であったためアバエルを持ち上げ、エンリルやエンキに好かれた。
そのことでアバエルにカ・インが嫉妬にかられ、闘争が始まり。この二人は衝突し喧嘩となり、とうとう思いあまってカ・インは嫉妬の元、アバエルをカインが石で殴り殺害したのでありました。
エンキは大変お怒りになり、カ・インを連れてアースの名の元となったエリドゥへ裁判に掛けるため引き連れて行き、裁判官7人による裁判を受けさせた。
マルドゥクは怒りカ・インを死刑にせよと訴えたが、農耕の教え教師であるニヌルタによりカ・インは死刑を許された。二ヌルタの取り計らいであった。
だかアダマの子、文明人化された人とは別視された、遺伝子換えが加えられたニンギシュジッダにはヒゲが少なく伸びにくいようになってしまった。
この人がアジア人の祖先となり、黄色人種が誕生しカ・インの子供達はオリエンタルとなったとのことです。
これは約30万年前の話でして、白人種は約4万9000年前に出てきます。
一方、弟のアバエルはニビル星の慣習にのっとり、石で作りられたピラミッド型の元に埋められるニビル伝統にのっとり埋葬された。
地球人へ埋葬のやり方が教えられたのです。
ユダヤは「セム系」と名付けられ、髪は黒く・目も黒く、浅黒い肌をした人々でした。
ノアやモーゼやイエスキリストも白人ではなくてオリエンタル系であったと書き残されています。
オリエンタル系は、アジア人やアフリカの人達で、スファラディ系ユダヤ人と言います。
アダムとイブの子供達
シッチンの説明はまだまだ続きます。
ニンギシュジッダの力によりティアマトとアダムゥとの間に新生児が生れました。
男女の双子が誕生し地球人はこれぞとばかり増加し始めて人数をどんどん増えたのです。
地球人達はニビル人と比較に成らないほど短命であり、成長が目覚ましく早かった。地球の1ヶ月とニビル星の1デイは同じであったからです。たかが10日ニビル日が地球では10か月であり人は産れ落ちることになる。たった二ビル日10日で子供が生まれたのです。
地球の3600年がニビル惑星では1年であった、太陽をニビルが 1サイクルする間に地球人は目立つって産み増えたのです。ニビル星人からは見たならダントツに子供が生まれたのです。
おおきな違いがニビル星人と地球人の子供達との間に異なる点があったのです。
地球生まれのニビル星人たちは命が短くなりました、地球の早いサイクルのためでした。
100年二ビル年、ニビル人種達は36万年は生きたのです。成長の度合いも地球人とまったく遅いと言う違いが当然で有ったでしょう。地球人は今の人間よりすこぶる長寿であった。
ニビル星が太陽系に接近
そうしている間にニビル星からきたニビル星人達が穏やかにエディン近くで生活をし、地球人類は金鉱の奴隷となりアフリカで金を掘り出していた頃、ニビル惑星が地球にすこぶる接近し太陽系惑星直列が起こったのです。この惑星直列により大きな事件が起こり歴史的なものとなった。
小惑星が火星とか地球に激突した原因がニビル惑星の引力によって起こったのです。のです。
火星の環境は激変し乾燥した砂嵐の星の代になり、火星基地は潰れ地球からニビル惑星に金が運び困れるようになったのです。
火星総司令官エンキの息子、マルドゥクは地球で誕生した息子で、万物を見通す目が地球の上空に本拠地を移動したのだということです。
そこからニビル星へ直接金を運んだのです。
13000年前(史実では、5000年前。)ノアの大洪水
地球人類は地球の各々の各地で子孫を増やしていった。人間の女性とアヌンナキの若者が結婚が増え、「半神半人」が生まれていった。
こうようになると人類とアヌンナキの判別がつきにくくなる。人間と神との分別が分からなく成ります。
このような事実はエンリルには実に情けないことでした。
そのような時にニビル惑星が太陽系に遣ってくる時期で、そのニビル星が地球に近づくと色々な影響が出るのです。
その時期の南極の氷は不安定極まりない状態でした、このままニビル惑星が近づけば、その引力により氷が総崩れしかねかったのです。
そこで氷が崩れ溶け出し大洪水が起こったのでした。エンリルは人々を一掃できることとなりました。
だが、ジウスドラ(ノア)に命令してエンキは方舟ではなく潜水艇を創造させたのでした。
動物と人間を残したかったのです。
ノアの寿命は950歳、ノアの子セムは600歳、アブラハムは175歳、ヨセフは110歳で有ったとされています。
アヌンナキが地球上に建築した大都市を大洪水は壊滅したのです。43万2000年間かけて建築された大都市群や文明などを完全に無くしてしまいました。
大洪水
この頃ついに二ビ惑星が地球に大はばに近かずく時がきたのです。
その結果、急速に温暖化した地球は、隕石だらけになり、南極の氷が溶け大規模の洪水が起こり、地球は水沈することとなりました。
その時、ジウスドラ(ノア)に方舟である潜水艦の政策の仕方を教えてエンキは空中で待機し、洪水が終わることを待つことにしました。
この大洪水は43万2千年の後のことでして、今から13000年前の出来事だったのです。
7日間続いた大洪水、降雨はその後40日間降り続いたのです。
この大氾濫水により、今までの文明の遺産や構造仏は全て汚泥の下に埋没し、かの大楽園は海の中に沈んでしまったのでした。
アダムとイブから数えてノアは十代目でありました。この地の他にも、地球の各地にこの洪水の痕跡や伝説が残っているのです。
何やらそのような時様な事が地球に在ったことは間違いないのです。
1万3000年前のシュメール古文書は大洪水の前の地球に考えも及ばない巨大構造物が数知れなく在ったのでしたが、そのほとんどが大洪水にて壊され、現存している構造物はレバノンのバールベクの石床だけであります。
すべてが大洪水にて海中深く泥の下に埋もれてしまったのでした。
この時間帯は、1万3000年前であります。
史実によりましては、今より5000年前位となっているのです。
旧約聖書によりますと、ノアの方舟の後にバベルの塔の存在となります。
アヌンナキ一族が地球を脱出したのは、1万2000年前であるからバベルは、ノアの方舟1万3000年前から、1万2000年前のあいだの話になります。この1000年の間にバベルの塔の話となります。
史実ではノアが5000年前となっていますので、地球を去ったアヌンナキ一族は4000年前位となりまして、史実での4000年前にアッと言う間にシュール文明は消えてなくなるのです。
史実にも、エジプトの伝説初代王は7000年前となって居るのです。
「ゼカリア・シッチン」は曰く
人類を滅亡させる事を意図して大洪水を起こすことが決められるかも知れないのです。人類の運命の吉凶は変わりうるのです。
近年のニビル惑星の接近の現れとしてゼカリア・シッチンがいうには、戦後のUFOが数多く目られるようになったり、「グレイ」という宇宙人がよく発見されることは、ニビル惑星が接近するひとつの証と考えられると言っています。
グレイ像は、超古代シュメールでも政策されていたのです。「グレイ」という宇宙人はアヌンナキの体の細胞で作られたたと考えられるバイオロボットであり、ゼカリア・シッチンの書より抜き出したのです。(北周一郎訳)
現代はエレニン彗星が災いをもたらすといい地球に近づいているのです。小惑星や彗星を武器にしたりするのがアヌンナキは好きで、ユーホーとして使用して惑星間を移動するのが好きであります。
初めに比較的大きな惑星を引き寄せるために小ブラックホールを作り、押し進めようとして惑星を利用します。粒子ビーム加速器を使って武器とし使用し爆発を起こす、その勢いで小惑星や彗星を目標にし的に向けて投げつけるということをします。
アヌンナキは、大昔より創造と破壊を手伝わせるために人類は存在し、奴隷化するために難民である人間を入手することであるというのです。
支配地であったニビルの土地が地球なのである訳ですから、たぶんアヌンナキの中では現在も地球は植民地であると思います。
エレニン彗星を考慮して、2011年3月11日の大震災が予測されましたが、9月24日に地球に大接近する筈であった、エレニンは巨大彗星でガスと水でできており木星より大きく、地球では地獄のような出来事が展開すると目算されたため、NASAから全職員に五大湖周辺や海岸線から離れるように警告を出したのです。
だが2011年8月16日に太陽が巨大なフレアを放出しエレニン彗星に激突しました。その後、8月30日に木星が衝撃波を吐き出しエレニン彗星を粉々にしてしまいました。
偶然にも自然現象が重なったのか、何か意図が働いたのかは分かりません。
中心の核のみとなり宇宙を飛び回るエレニン彗星は、宇宙船のみとなり電波信号を発信しながら軌道を飛び続けているのです。電波はYouTubeにアップされており、古代のシュメールの言語ではなかろうかと発言されているのです。
史実での5000年前位のノアの方舟の時代だとしますと、アヌが地球を訪れたという5.750年と合致します。
アダパとティティの誕生 !!!『 エジプトの王 ラーとは !!!! 』
地球人達をエンキが覗き見していて。その時に、はたと気がついたのです。
地球人類は新しく産み育つ中で退化していたのです、だんだんネアンデルタール人的になって優れた特徴が亡くなることに気づきました。
エンキは水遊びをしていた2人の地球の女性を誘惑し、それぞれに男子と女子を1人ずつ生ませた。二人の子の名前はティティとアダパといいました。
ティティとアダパは知力が備わり理解力があり、言葉を話しし、他の地球人より寿命は長かったようです。
エンキによく似て文化人化されしと言うようになったのです。アダパ誕生にて、ニビル星人に凄い驚きを生みました。
地球人が自分達により進んだのであるように黙認された。アダパはニビル星に運ばれ、アヌにより観察されサイド地球へ返還された。
20万年前の遺跡、南東アフリカで発見
20万年前に建設さられた地球最古の古代文明が南東アフリカで発見されました。
証拠品が多数出土しました。地球全体から見ても現存する中でも最古の文明であります。
南東アフリカのマプト湾より西に150kmの所に、1500平方kmを持つ超大な敷地面積を持つ、紀元前20万年前~紀元前16万年前の最古代大都市が存在していたことが分かりました。
地理的にも特徴があり、とある伝説と完全一致するといいます。
アフリカと言えば金の最大採掘地である。この場所も金山の中に位置しています。
金と言えばあのアヌンナキ一族の事を思いださせます。
アヌンナキ一族は8万5千年ほど前
またまたアヌンナキ族と地球人が混ぜ合わされました。
それらの後にアダムとイブの子、長女サティから地球人類は続いていったのです。
このサティの子どもの系列のルマク代に、アヌンナキ族がニビル惑星からやってきた44万5000年前より数えて100シャルニビル年36万年が経った頃、今より8万5000年ほど前にアヌンナキと地球人とで又もアヌンナキ族と地球人との混雑したとのことです。
ニビル星の王子の地位を捨てさったマルドゥクは、サルニパトという地球人の女子と結婚しました。新しい土地を授けられ、エディンより出されました。
地球人であるサルニパトのご両親はニビル星のエンキメに二度も行ったことのある人でした。
マルドゥクとサルニパの間には、サトとアサルの2人の男子が誕生しました。
火星のイギギたちは、200人の集団がシャムガズという首謀者により反乱を起こし、知能の優れた地球人女性を引き付れ逃走しました。
マルドゥクと知能の有る地球人女性との婚姻が認められたから、という理由で自分たちも結婚相手を手に入れたかったようです。
イギギの200人は地球のヒマラヤ杉という場所に移動し住み就きました。
そして攫ってきた地球人の女性との間にロケット船の子供たちと呼ばれる子供たちを残したのです。
マルドゥクは、イギギを来させました。ヒマラヤ杉の場所に残ったものもいれば、子供達の中には遠い東の地、高い山々の地(ヒマラヤ山脈か? キリギスか?)へ逃げて行った者もいたのです。
約8万5000年前にアフリカや中東やヒマラヤにチリジリになって行ったと思われます。
その後の後に、この人たちの一部が時間を経て移動を繰り返しながら日本にやってきて縄文人となったと考えています。
約4万9,000年前の地球では
バタナシュという美女
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ルマクの愛妻はバタナシュという名前で凄く美しい人でした。
彼女にエンキは惚れこんで、密かにバタナシュを手籠めにし子供を宿らせました。
その子は、現存する地球人とは異なった子供で、目が青く輝き、髪は金色で金髪でした。この方が西洋人のアーリア人ではなかろうかと思われます。
ジウスドラという長く明るい人生の日々という意味する名前を付けられました。
ニビル星人が地球に遣って来て110シャルニビル年である39万6千年の後に、今から約4万9000年前に金髪で碧色をした眼の人が誕生しました。
地球人のエムザラと結婚したジウスドラには、3人の男子を生みました。
現代的にいいますとクロマニヨン人という新人の誕生でありましょうか。
7世紀の622年のマホメッドもオリエンタルで有ったのではないでしょうか。
8世紀の前には、すこぶる少ない白人種とユダヤ人種の混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほぼ存在していませんでした。
マルドゥクの時代(地球人女性と結婚した時代)
現在のエジプトであるマルドゥクの土地と、バビリであるバビロニアにも征服した土地が有ったのです。
マルドゥクは地球の王になろうとした、ニビル王の子エンリルと、その子孫達とが対立をし始めたのです。
最太古のアラル時代から地球に最後の兵器である核兵器と思われる兵器がニビルより持ち込みセットされていました。
マルドゥクはこれを探索し見つけたのです。最終兵器であろう核兵器を入手して地球の支配を目算していたのです。
その一方では、エジプトにおいて最初ラーと名乗り、地球人類に私が『我が唯一神である』としたのでした、地球人類を支配下において自分が帝国の神であるとしたのでした。
バビロニアに宇宙へ羽ばたく為の飛行基地であるバベルの塔を政策し始めました。
これに堪えられなくなったエンリルとその子供達は、シナイ半島の地下に置いて有った別の最終兵器を作動さ爆発させたのでした。
その悪魔の風である爆風は偶然にもエリドゥにあった自分たちの住所地に襲いかかってしまったのでした。
地球人はエンリルの土地で死滅し、ニビル星人達は宇宙へと次々と逃げて行ったのでした。
その爆発で生じた悪魔の風はエジプトとバビリには到達せず、被害に会わなかったようです。
エジプトの初代ラーとなりマルドゥクは地球の支配者となりました。
初代のバビロニアのニムロドとしても後世に言い伝えられたのです。
約12000年前のお話であり、太古のエジプトとバビロニア人達はマルドゥクとサルニパトの子供達となります。
1万2000年前に地球から飛び去ったアヌンナキ一族
ニビル星人アヌンナキの初めの計画は、ニビル星を守る為の金のナノを取り出すという計画は達成され、ニビル星は再び元に戻りました。
そこでアヌンナキでありますネフィリム達は地球を飛び立ち、地球人達に任せ、監視し続けることとなったのです。
それらの事は、ノアの大洪水から1000年目のことでした。ノアの大洪水は13000年前位の出来事ですから、アヌンナキが地球を飛び立ったのは12000年前位となります?
5,750年前のお話
シュメールの古い文献に記されているのは5,750年前にニビルの王様であるアヌ様が地球を公式訪問なされたといいますと、惑星ニビルは地球の近くに来ていたこととなります。
ノアの方舟の時代が約13000年前位となると、ニビル星が2回やって来たとして3600年を2回分引きますと5800年位前となり話しが会います。
ニビル惑星が地球の近くに遣ってくれば、人類の運命を決定する慣例の「尊大なるアヌンナキの12人の評議会」が執り行われるのです。
そこで制定された「目的表」によって、次の3600年間の人類の歴史が決定するのです。
アブラハムの長男である「イシュマエル」からアラブの人びとが生まれ出ており、次男の「イサク」の子である「ヤコブ」からはユダヤの人々が誕生したことになります。
ヤコブの別名はイスラエルで、イスラエルの息子が12人誕生し後に十二支族と成るのです。
4000年前に、あっという間に何処かに行ってしまった。キリギスに移動したシュメール人はごく一部で、その後に日本へやって来たのではないでしょうか。
一部はアンダマン諸島より海を船で渡り、日本に遣ってきたのではないでしょうか。
日本人の先祖はエフㇻエムで北の王である、南の王はユダ今のイスラエルに居る。
ヨセフは山幸彦でその子がエフㇻエムで、そこ子にべリアがおり、この人が神武天皇となる。以後皇族となる。
大部分がヘブライ語で書かれている<旧約聖書は、3500年前頃に成立しています。>
人類の祖先ミトコンドリアイブ(女性)
ミトコンドリアDNAは必ず母親から子に受け継がれ、父親から遺伝されることはないです。つまり、ミトコンドリアDNAを調べれば、母親の母親の母親、そして母の母の母のと女性を中心な系統を遡ることができるのです。
カリフォルニア大学の教授は多くの民族、147人のミトコンドリアDNA遺伝子の塩基の並びを調べました。
すると人類の系図は二つの大きな枝にわかれ、一方はアフリカ人のみからなる枝葉、もう一つはアフリカ人のごく一部と、その他の全ての人種からとなる枝葉だということが分かりました。
これは人類に共通するご祖先がアフリカに存在していたことを表しています。
このような論理に置いても明確にされた最古代の女性に対して命名された呼び名はミトコンドリア・イブと申します。ダーウィンが考えていた「アフリカが人類の起源だという説」を納得させられる形になりました。
人類は母方の家系をたどると、約12万年前~20万年前に存在していたたった一人のアフリカ女性に行くつくのです。
アフリカで金鉱山を採掘していた(?)
アヌンナキ一族の流れ
アヌンナキの労働者としてアフリカの金鉱山で働いていたアダマの息子たち、初期の時代の地球人を思い出してしまいます。
シッチンの説によりますと、その後にアヌンナキ一族と地球人との混じり合わせによりアジア人やアーリア人などの当初の地球人類とは違う生命が誕生したわけですが、金の鉱山で労働していた当初の地球人達がアヌンナキがニビル星に飛びたった後、人類はアフリカ大陸に残りネグロイドに進化したとしたらなら、それはそれなりに辻褄が合致するように感じます。
近年、20万年前の遺跡が東南アフリカで見つかっており、その場所は金採掘の場所であるとのことであります。
アヌンナキはシュメール人が残した神話によりますと、金を入手する為に太陽系の第10惑星である『ニビル星』から地球にやってきたという。
約40万年前に当初は海水から金を取り出していましたが計画道理には行きにくく、アフリカで採掘をするのです。
ニビルでは大気と地熱が宇宙空間に流れだし、ニビル星では生命の絶滅の危機へと、その流れ出しを静止さす為に黄金のナノ粒子で惑星を覆いつくさなくては駄目になった。
ですが、ニビル星には金がなく、金を探して地球にやって来たのです。
ですが、新たな問題が発生した、ニビルから同行してきたアヌンナキの鉱夫達が反乱を起こしてしまったのです。
衰弱が泊らない母性ニビル星へ、多くの黄金ナノ粒子を早く送ろうとするアヌンナキは新たな労働力が必要となり、自分たちに似た人類を作りだすことに成りました。それが人類です。
シュメールの人々は自分たちを「混ざり合わされた者」と呼び、天文学知識や高度な医療技術や金の精製技術を「神々からの贈り物」と記しています。
海王星も1989年にボイジャーが接近した海王星のことが、シュメール文書に記されていたのは、「見た目の表面は緑青色で、水は豊富で沼地のような植物のような反転がある」と、正にその通りだったのです。
その後、アヌンナキの間の権力抗争や2度の大きな洪水により黄金の採取は終るものの、アヌンナキ達は高度な技術と人類の創造とをシュメール人達に与え、文明の発展発達を促しました。
シュメールの人達が書き記された膨大な量の粘土板を残しましたが、丁寧に解読し研究していったユダヤ人である考古学者の『ゼカリア・シッチン』は、『旧約聖書や、古代から伝承されてきた神話はシュメール文書の改訂版に過ぎない。』と語っています。
日本では !! 12万年前から4万年前 !!!『マンモスハンター』が来る前に
(471) 諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説 - YouTube
私は両方からだと思います。
南方説は沖縄の久高島より、五穀が入ってきた。
灌漑農園と言うシステムです。
日本最古の遺跡
砂原遺跡12万年前、島根県出雲市多伎市にて、2009年9月29日に松藤和人教授が(同志社大学教授)を代表とするとする、発掘団が約12万年前~11万年前の地層から、旧石器の物と思われる出土品を20点発見したと発表しました。
玉随製剥片・石英で出来ている石核・小型の剥片が色々・石英塊・敲石によるハンマーストーンなどが発見されました。
入口遺跡10万3千年前、長崎県平戸市山中町の段丘状の中で開発により1999年前~2003年前の地層から平戸市の教育委員会にて緊急調査が行われ数カ所で調査が行われた、10万3000年前から9万年前と考えられる二地層より瑪瑙の石器が見つかりました。
石器類は平戸市の教育委員により1999年~2002年にかけての発掘にて出土していました。
その後、台形型の剥片が4点・嘴の石器が1点・スクレイパーが4点・ハンマーストーンが2点・礫器・石核・剥片・砕片などが発見されていました。
金取遺跡9万年前、岩手県宮守村では金取遺跡が’84年に武田良夫氏により発見されて、’85年にて金取遺跡発掘調査団が菊池強一氏を代表として本格調査団を結成して行われました。
調査によりますと、中期の旧石器時代のものの品と思われる石器類40点を発見しました。現在では、捏造の及んでいない中期の旧石器時代の遺跡として注目を集めています。
2003年では、石器が出土した最も低い下層は9万年前~8万年前に九州から北海道まで飛び散った、阿蘇4火山灰であることが分かり、中期の旧石器時代の遺跡という事が分かりました
野尻湖遺跡群4万8千年前~3万3千年前の野尻湖の湖の西の岸から南側にかけ丘陵地帯と点在する野尻の39ヶ所の遺跡と湖底の呼び名です。
その中の旧石器時代の中期の立が鼻では、約4.8万年前~約3.3万年前の地層からヤベオオツノシカやナウマンゾウなどを食べやすくしたとみられる石器骨器などの道具類などが出土し、旧石器時代での大型の獣たちを食べやすくした跡を残している遺跡は世界的に少ないため、大変貴重とされているのです。
高原山黒曜石原産地遺跡群4万年前、昭和30年代から知られていました、旧石器時代と縄文時代に高原山の黒曜石が関東地方で利用された。
2005年7月24日に単独で田村隆氏は高原山にて調べて剣ヶ峰と大入道の間の場所の斜面に多く黒曜石の角礫がありました、石器の剥片をその中に多く見けました。
その直ぐ後に石器石材研究会が調べにゆきまして、旧石器時代の石核が見つけ出され、石器も作られたことがわかりました。
効率的で知的な作業の跡が黙認されました。
4万年前には舟に乗った現存する人類、新人が海を乗り切って日本列島に遣ってき始めたと考えているが皆さんどうでしょうか。
縄文人達は北方から遣って来たのでしょうか
このような物の積み重ねによって、古い人骨からのDNAの抽出や分析が縄文人は南方からやって来たのではなく、むしろ北方からやった来たことを証明するのではなかろうか。
2009年からの研究の結果ですと、縄文人の祖先が港川人であるとする考え方に疑問を感じ無ければ成らないような事に成りました。
現在のニューギニアやオーストラリアの先住民に近いのが港川人であるというのです。国立科学博物館の海部陽介主幹ですと、本土の縄文人とは港川人が異なる団体であったのではなかろうか、5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた団体からの由来で有ります。
その後に農耕農作を持った人が東南アジア広域に広がり、オーストラリアなどに限定され、港川人のような団体となったというのです。
縄文人が南方からやって来たと言う説は揺いだのでした。
南の方から遣ってきた人間がいないということではなく、沖縄の諸々の島を通ってやって来た南の方の方々は必ずいたはずで有ったでしょう。
だが南の方からやって来た人たちが日本列島に行き、統一化された縄文人ではなく、北方から来た人達も居られたことが分かります。
マンモスハンターであるシベリアの旧石器時代の2万年前には樺太経由から北海道に来ていた可能性は高いと考えられます。
縄文人の取手の読み解きの結果を考慮すると、シベリアからやってきた人達が、関東にも下って来たことが分かります。
旧石器時代にシベリア経由で到達した ・・このルートはあったようです。
マンモスハンターが来る前は
二万年前にバイカル湖経由の方々が樺太を通り南にやってきたのは、高い確率であったと分かりました。
四万年前には日本列島に少ないが新人達はやって来ていたのではなかったか?(人骨が出なくても高い文明の跡・遺跡が見られている)となる。
バイカル湖由で遣ってきて関東に住んだと見られる縄文人が多かったとは言えるが、南方からやってきた縄文人も少いながらありました。
日本では旧石器時代・3万8千年前には刃部磨製石斧が日本とオーストラリアのみで作られており、日本では日本独自の文化が形成されていたことが見えてくるのです。。
この刃部磨製石斧は8千年過ぎた3万年前には見られなくなります。これは現存する人種以前の人類たちに磨製石器を作る知能があったという証拠なのです。
前記の4万年前の高原山の遺跡から発見された知的で効率的な作業の痕跡はこれも現存する人種以前の人類たちの仕業なのです。それとも現存する人類が4万年前には日本に渡ってきていてこれらの文化や技術を世界に先駆けて生み出したのではないでしょうか。
2万年前には日本列島がユーラシア大陸と陸続きであったという説がありますが、ユーラシア大陸と北海道は除いた日本列島は陸続きにならなかったことが分かりました。
これは衝撃的なことです。
この頃に現存する人達が日本に渡って来るには、航海無しでは来れないことがわかったのです。
北海道のみが陸続きであった?
では舟を使わないと行けない伊豆諸島や神津島で発見された黒曜石が、関東地方の後期である旧石器時代3万8千年前の遺跡で発見されているのです。
このことから日本人のご祖先様は、既に意識して航海を行っていた、そこで舟に乗って日本列島に来ることが可能だと主張する研究者が出てきました。
これについては実際に航海する研究が進み始めているのですが、にも関わらずこの時期の遺物船が見つからないため、航海にてやってきたのだという説には反対もあります。
いま現在、国立科学博物館主催で3万年前航海再現プロジェクトが行われています。
台湾より3万年前の遺跡の場所をたどり、沖縄諸島を経由して日本にたどり着くことができたという実証を掴もうとしているのです。
沖縄本島の山下洞穴からは3万2千年前の人類の化石が発見され、宮古島からは2万5千年前の人類の化石が見つかり、久米島からは2万~1万5千年前の人類の化石が見つかっています。
3万2千年前には現存する人類が沖縄で暮らしていたのです。
しかしこれらは、どれも骨の断片しか残っておらず、完全な人骨となると沖縄の具志頭村で発見された港川人の人骨が唯一なのです。
1万7千年前の港川人の人骨の分析が進むことで彼らが何処から来て、南九州にどのように繋がるのかが見えてくるのです。
港川一号の男性の人骨は身長153Cmで、小柄な熟年男性です。栄養状態は良くなく、子供の頃に栄養不足により時々成長が止まった痕跡が見られます。
上半身全体は貧弱なものの、手の大きさは現代人とほぼ同じで握力はかなり有ったようです。
また足腰はすこぶる強く野山を駆け回っていたことが読み取れます。
頭蓋骨を見ても現代人の2倍も噛む力があるなど、歯を道具として使ったのであろうという推察がされます。
この後で有ろう、沖縄の南東部に久高島が有り琉球の始祖アマミキヨが降臨した島が有り、五穀発祥の地として神事が行われた。
年代は定かではないが、久高島のイシキ浜にりそう
アダムとイブからホモサピエンスが始まった
メソポタミア文明、シュメール文明
十二支族が日本に遣ってきた
日本人のルーツ、YAP遺伝子、宇宙人
日本とシュメールとの共通点
マナの壺、三種の神器
ニビル星人! 【アダムとイブは!! 試験管ベイビー!!!】 末裔は日本人
ニビル星は3.600年に一度太陽に戻ってくる。ニビル星人によりアダムとイブは試験管ベイビーとして創られ。その子孫は、はるか昔に日本に着ていたのです。
つまり、アダムとイブは試験管ベイビーで誕生し、その末裔は日本人と成るのです。
今も解読が進行中の、シュメールの跡地から出土した粘土板を読み解きをしていましたシッチン教授(1922年6月11日~2010年10月9日)は亡くなられたのですが、解読は続けられています。
メソポタミア文明の主流で有る、5.600年前頃の文明のシュメール文明は、チグリスとユーフラテスの川との間のイラクの南部の緑豊かな広大な大地に発達した文明です。
4.000年前にアッいう間に姿を消しましたが、実は突然忽然と現れた文明です。
進化論には解釈できない人類の期間が有り、サルからの人類への進化が理解できない。他生物に比べて人類は突然に短い期間に途轍もない速さで進化した。人類史上の中でも謎が大きすぎる、シュメール神話を読み解くと、この空が完全一致するのです。
ダーウィン(1809年2月12日生~1882年4月19日没)は「人間が進化論で一番当てはまらないのです。」と語っている。
ダーウィンと共同の研究者、アルフレット・ウォレスは「猿から人間が誕生することなどない。」「人間は猿からの進化では生まれない。」と言っている。
メソポタミア文明史は、古代ギリシャ史、新旧聖書、ローマ文明史にも記されていません。
最も大きなの謎とされているのがシュメール文明の事なので、歴史の学問では、『シュメール問題』と呼び、解き明かしがたい難問中の難問となって折るので有ります。
この文明は、現代文明と同じ高い技術を用って歴史的に言えば瞬時に国家社会都市を建設しました。
シュメール人の人々はアヌンナキ集団となり神話と成り粘土版に書き残され、オックスフォード大学教授までもが「我々人類を創り出したのは、シュメール文明を作り出したのはアヌンナキ一族で間違いない。」と主張しています。
又、古代の宇宙飛行士説を唱える学者も多くいるのです。
高度な医学知識や高度な技術を持ち、卓越された法整備などを維持し、白内障手術も行っていました。
天文学知識も現代天文学の視点からも素晴しく誤差が無いのです。
太陽からの配列や距離など大きさでさえ記されていて、起動も書かれているのす。43憶Km以上地球より遠く離れた海王星の色彩や性質までも詳細に記されているのです。
暦は、日食や月食など多くの惑星の動向まで恐ろしいほど正確に想像しており、地球の地軸である2万5920年の歳差運動(さいさうんどう)の円を書き振れている周期も読み解いていたのです。
ニビル星のこと
ロシアの学者セガリア・シッチン(1922年6月11日~2010年10月9日)が読み解いているのです。
彼等の粘土板に残した太陽系図には、火星と木星の間を通過する現在とは違う楕円形の軌道を有した惑星『ニビル』が書き描かれており、3.600年をへて太陽を一周するニビル星は、太陽系内を南方より太陽系に入る軌道が有ると記されているのです。
火星と木星間の間に有ったいた『惑星ティアマト』と激突し、小惑星帯と地球とに分離し、彗星とを形成したのです。
地球は46億年まえにできたといわれています。
ある時、ニビルの月である一個と激突したティアマトは2つに分離したのです。
続いてニビル本体が衝突し、ティアマトの破片は小惑星帯となりました。
もう1個はニビル星の惑星の一個と再び激突し、新しい軌道に押し出されて、現存の地球となったのです。
シュメール文明
歴史の学問で世界で最も古いと言われているメソポタミア文明。チグリス川ユーフラテス川の間の肥沃な土地であるのです。
そのメソポタミア文明の中でも初期に当たる、5.800年~5.500年頃の間に繁栄したのがシュメール文明<なのです。
数多くの像が出土したシュメール文明の時代があり、シュメール人達を形を取った像は異常に目が巨大で宇宙人のようです。
シュメール文明は、イラク南部に築かれた文明、シュメール人によってメソポタミア文明の中核をなしており、疑問なのですがシュメール人というのは出所が理解できない人々でどの辺りから遣って来たのか判別していません。
有る時期に、急現したシュメール人は、その後においても人類文明に影響を経てゆく素晴しい現代科学と同じような高度な手法や高度な発明を次々と記しています。
彼らの膨大な発明により、シュメール以前の人類とその後の人類の生活は大きく変わってしまうのです。
1分が60秒、1時間が60分、この60進法もシュメールの人達の発明なのです。
12の倍の数、両手の指の10本という数も天文学も最小公倍数から出来ていると言われています。
このシュメール文明の跡地から数万の粘土板が発見されていて、文字が記されていて、今も読み解きが進められています。
その解釈は多くありますが、この解き明かされた文章をシュメール文書と言われています。
シュメール神話には、天空の神アヌを先頭として、多神の名前である、神の名前が記されているのです。
この神達をアヌンナキと呼び、神話の他においてもその時期の文明の単位を知る手がかりが残されています。
粘土版に記されているシュメール文章の解読の中でもゼカリアシッチン(1922~2010)が発表した文面は注目を集める事と成ります。
以下がそうです。
・天空の神々はニビル惑星という星から宇宙船に乗り遣ってきて、猿人であるネアンデルタール人と自分たちの遺伝子を組合わせて人間を作ったのです。
・遠くの星である肉眼では見ることのできない、冥王星や海王星について、既に理解が有ったとしか思えない点が数多くあります。
・ニネべから発見された粘土板から、ニネべ定数と言われる数多くの(195兆9552億)出土品が有るのです。
この数値などは、地球の歳差運動の周期やら、様々な惑星の公転周期でも割り切れるもので有った。
これは最も古い人類が最も先端知識である天文知識を有していたということになるのです。
現代の宗教でもこの様に信じる者が多いのですから、古代に同じような教えがあり、それを書きこむに当り粘土板を選んだとしても不思議もありません。
だが何処から来たのか理解しがたい、スーパーマンではないが何処からか突如として遣ってきて高度な文明を構築したシュメール人は、自分で自分達を「混ざり合わされた人」なのだと言っていたのです。別の星から宇宙船に乗ってやって来た人々によって、猿人(ネアンデルタール人)と遺伝子を合成されて創造されたと信じていた、あまりにも唐突で夢多き話に魅了されます。
シッチン博士の説明の説明は。
紀元前45万年前の長い戦いにてニビル星の大気が汚染され、生物の生命が危うくなりアヌンナキ一族は、ニビル星のオゾン補修の為、金の粒子のナノ粒子を探し求めて旅をし続けていたのです。
以前の時代からの大洪水を乗り越えてきて続いたシュメール人の歴史は、「シュメール王名表」にはっきりと記されているのです。
「王名表」には、「神世の代」「人の世の代」とに分類されております。
「神の時代」とは、アヌンナキ一族とアヌンナキ一族との間に生まれた人の子が地を納めた時代の事が記されています。
アヌンナキ一族は、シュメール文明の粘土板による解説では「天より地に降り来たりし者」という意味で、アヌンナキとはニビル惑星という星に住居する人達で、命の長さは30万年とか35万年にも成るといわれいます。
ニビル星は太陽の周りを楕円軌道しつつ3600年周期で移動し太陽を公転して回っている惑星なのです。
そのニビルから、アヌンナキ一族が地球に知的な生命として舞い降りて来ているのです。シュメールの人々に技術と知識を齎したということであります。
「人の時代」とは、エンリルの選出によって「人の王」が人間と神との仲立ちをした時代であり、「王権」とは天空神より下りてくるのです。
地(地球)に天(ニビル)の組織やシステムが表されたのです。「天から王の権力が下らされたとき、王権は今のエリドゥにあり。エリドゥにおいては、王はアルリムであり、地球の長さでいいますと2万8800年の長気において治めました。」
「王名表」の始まりはこのようなお話しで始まるのです。王族はアルリムによって長く続き、建設された都市国家が多く作られたのです。
ところが、その時「地球を大洪水が襲ったのです。」
大洪水の後、「天から王権が下され、王権はキシュへとなった」と記されています。
一般的に、大洪水後の時の流れを「有史時代」と呼び、王権に偏ることなく、古代シュメール物語を話しすることは出来ない。
王の権力があって、シュメール文明は文明や科学が発展したと言えるので有ります。
シュメールの文明の王権の力とは、アヌンナキ(地球総司令官)のエンリルの全権と、その王の権限による社会組織図が王制なのです。
現在の科学や文明が古代シュメール文明の優れた知恵により出来上がっており、政治体制についても、何万年もの時空を越えて現代まで受け継がれているのだ。
人類全てがシュメール文明を元としているのです。
44万5000年前のお話なし
44万5000年まえにおいては地球に人は居ませんでした、地球に自から生を得ていた動物や植物が存在していたころ、50人のアヌンナキ族がニビル惑星より地球に天降った。
指導者はエンキであったのです。
彼らの心の古里は「ニビル惑星」であったのです。
ニビル惑星より宇宙船であるUFOに乗り地球にやって来たのです。彼らは今のペルシャ湾に着水して来ました。
そして現在のイラクにあるペルシャ湾より上陸して、エリドゥ都市を創り上げたのです。
Earth(地球)の元がエリドゥEridouだったのです。
アヌンナキ一族は44万5000年前に地球に天降ってきました。
目的は金によるナノ粒子の取りだすことです、ニビル星の大気が弱くなりそのカバー作りをしニビルの大気と地熱とを守る為だったのであります。
太陽に戻ってきたニビル星は3600年に120回戻ってきて、ノアの洪水の時期であります、13000年前とほぼ計算が合うのです。
遡ればノアの大洪水は12.950年前となりまして、アヌンナキ一族がニビルから遣ってきてイラク南部のペルシャ湾に着水した年は444.950年前となりまして計算が実によくあうのです。
地球においての生活は
1日目
アヌンナキは地球の変化する空の色が編かしてゆき、夕日が赤色豊に染まり地平線に没していく光景に心奪われ驚いたのです。
ニビル星においては見ることがない景色で、呉れないに染められた景色であったからです。
そして暗闇が迫る夜がやって来ると、初じめての体験である暗黒に恐れおののきました。
そして、アッいう間に朝が来たので、彼らはあまりの速さに驚きました。
彼らは余りにも速い地球の1日の投影にすこぶる困惑しました。
これが、1日目である。
2日目
陸地と運河とを仕切り堤防を作成して境界とし、飲み水をどうにかしたのです。
3日目
植物や果物を食用になる者を選び採取しました。
4日目
粘土により家を建てたのです。
5日目
葦で船を作成し、水中に生育する物を調べ、上空を飛ぶ生物も調べました。
6日目
果物の園に生きている動物を調べ、地球上の動物たちの乱暴さを知り自分達であるアヌンナキ族を守るための柵を作った。
7日目 は休んだ。
聖書の原型
このシッチンが明確にした説は聖書の天地創造の初めに光有りきの7日間のお話しに獄似していて、シュメールの文章が聖書の原型に成ったような気がしますが、無いでしょうか。
この旧約聖書が仕上がったのは大部分がヘブライ語で記されており、3500年前頃となるのです。
現代版が出来上がったのは、0年から1.000年の間に仕上がったようです。
1日目 暗中にて、光をおつくりになり、昼夜が創られた。
2日目 神は大空をつくった。
3日目 大地を創造された、海もしあがり、植物を育成した。
4日目 太陽や月や星々を創造された。
5日目 魚と空を飛ぶ鳥をおつくりなられた。
6日目 家畜や獣をおつくりし、神にゴクニした人をつくった。
7日目 神は休すまれました。
アヌンナキ一族はエリドゥに住み着き、ペルシャ湾から金を取り出し生成し続けました。
ですが後にアフリカの彼方の方が金の保有量が多い事を知り、アフリカに移動して採掘した事が克明に書き残されているのです。
代表者はエンキでした。
エンリルが採掘の指揮者となり、南西アフリカに移動し金鉱を開き金塊の採掘を支持した。
シュメール神話の中でアヌンナキが明記したなか、神の世界においても明確な世代交代が有ることがもつとも興味深いところです。
シュメール神話が描写されている中で、アヌ代を初代として始まり、息子のエンリル、エンキの代、エンキの子ニヌルタとマルドゥクの時代まで記録されています。
ニビル星人の神と、人類の系統が記載されたシュメールの粘土板「王名表」においては、ニビル星の王アヌ様の以前に23代以上の世代が有ったことになつているのです。
ニビル星にて、最高決定機関で有る構成メンバーは12名となり全ての事はこの12名で決まることとなって居ました。オリンポスの12神は、このお話しが元となったとのことです。
紀元40万年にアヌンナキ達は南西アフリカに移動し、金を精製していました。イラク南部に、シュルパークやシパ―などの7国を建立し、金を船団で運搬しました。
アダマとティアマト(イブ)
アダマはアダム、ティアマトはイブだとされています、「エディンとは平野を意味します」という外から見えない柵の中に入れられて、このエディンである平野より出ると恐怖が襲ってくる、恐ろしいことが起こると教育された。
この穏やかなエディンはアダマとティアマトの観察設備であり、ビデオを通して彼らを監視し続けた。
多くのアヌンナキの人々がその珍しい生き物を見ようと、遠くよりやってきた。今でいうとまるで動物園のようなものでありました。
アダマとティアマトであるイブは頭は賢く学習能力が有ったため、監視は気をつけながら行われた。
生殖期間と能力
今度はティ・アマト(イブ)の細胞から取った細胞核と類人猿ネアンデルタール人の卵子から、7人の女性のアヌンナキ人の子宮で、7地球人女性達を生み出した。
先の7人の男子と今回の7人の女性をエディンに放置され、観察されていった。
森の木の陰などで行為を行う姿が見受けられた、だが、女子は子を出産せず増えていかなかった。子を宿す様子がないということが明らかになった。
アヌンナキ族とアダマとの違いを調べた、アヌンナキ一族の遺伝子と比較した。
アダムゥとティアマトの生殖細胞には性染色体が無く、22本であった。
そこでXXとXY染色体を加えることで繁殖が出来ると考えたニンギシュジッダは、エンキの肋骨からの性染色体を男性のアダマの肋骨に入れ、ニンマーの肋骨から取った性染色体をティ・アマトの肋骨に入れた。これにより、アダムゥとティ・アマトに子供が生まれた、成功したのである。
『アジア人種のご先祖様 !! 』【ノアの方舟 ( 潜水艦 ) !!! 】
シッチン博士の話の続きは
アヌンナキと猿人ネアンデルタール人の交配種である人間は、帝王切開で誕生した。
こうして作りだされた人間は、エンキが支配する金山の労働者となったほか、エンリルの配下のエディンでも、別の人が農耕の仕事をした。
ちなみに「エディン」とは古代シュメール語で「平野」を意味するが、発音からも察するように「旧約聖書」の「エデンの園」であるのではなかろうか。
当時の人はアヌンナキと猿人ネアンデルタール人の交配種であったため、生殖能力を持たなかったが、その内アヌンナキのエンキは性能力をもった人間の作り出すのに成功しました。
「創世記」にて、このお話はエデンの園でアダムとイブが蛇によりそそのかされ禁断の実を食べる物語として語られるように成ったのです。蛇と言えば、遺伝子も螺旋状に成っており、くねくねとなって居ます、此れも又似通っています。
アダムとイブに子ができた。最初の子供達は男の子の双子たちであった。
長男はカ・イン(恐らく旧約聖書のカイン)、アバエル、アーベルで二男として生まれました、その次は女子でサティが生まれた。
二ヌルタがカ・インに農耕を教え導きました。
二男のアバエルに牧畜を教授し羊飼いにしたのは、マルドゥクだった。
ニビル星人は肉食であったためアバエルを持ち上げ、エンリルやエンキに好かれた。
そのことでアバエルにカ・インが嫉妬にかられ、闘争が始まり。この二人は衝突し喧嘩となり、とうとう思いあまってカ・インは嫉妬の元、アバエルをカインが石で殴り殺害したのでありました。
エンキは大変お怒りになり、カ・インを連れてアースの名の元となったエリドゥへ裁判に掛けるため引き連れて行き、裁判官7人による裁判を受けさせた。
マルドゥクは怒りカ・インを死刑にせよと訴えたが、農耕の教え教師であるニヌルタによりカ・インは死刑を許された。二ヌルタの取り計らいであった。
だかアダマの子、文明人化された人とは別視された、遺伝子換えが加えられたニンギシュジッダにはヒゲが少なく伸びにくいようになってしまった。
この人がアジア人の祖先となり、黄色人種が誕生しカ・インの子供達はオリエンタルとなったとのことです。
これは約30万年前の話でして、白人種は約4万9000年前に出てきます。
一方、弟のアバエルはニビル星の慣習にのっとり、石で作りられたピラミッド型の元に埋められるニビル伝統にのっとり埋葬された。
地球人へ埋葬のやり方が教えられたのです。
ユダヤは「セム系」と名付けられ、髪は黒く・目も黒く、浅黒い肌をした人々でした。
ノアやモーゼやイエスキリストも白人ではなくてオリエンタル系であったと書き残されています。
オリエンタル系は、アジア人やアフリカの人達で、スファラディ系ユダヤ人と言います。
アダムとイブの子供達
シッチンの説明はまだまだ続きます。
ニンギシュジッダの力によりティアマトとアダムゥとの間に新生児が生れました。
男女の双子が誕生し地球人はこれぞとばかり増加し始めて人数をどんどん増えたのです。
地球人達はニビル人と比較に成らないほど短命であり、成長が目覚ましく早かった。地球の1ヶ月とニビル星の1デイは同じであったからです。たかが10日ニビル日が地球では10か月であり人は産れ落ちることになる。たった二ビル日10日で子供が生まれたのです。
地球の3600年がニビル惑星では1年であった、太陽をニビルが 1サイクルする間に地球人は目立つって産み増えたのです。ニビル星人からは見たならダントツに子供が生まれたのです。
おおきな違いがニビル星人と地球人の子供達との間に異なる点があったのです。
地球生まれのニビル星人たちは命が短くなりました、地球の早いサイクルのためでした。
100年二ビル年、ニビル人種達は36万年は生きたのです。成長の度合いも地球人とまったく遅いと言う違いが当然で有ったでしょう。地球人は今の人間よりすこぶる長寿であった。
ニビル星が太陽系に接近
そうしている間にニビル星からきたニビル星人達が穏やかにエディン近くで生活をし、地球人類は金鉱の奴隷となりアフリカで金を掘り出していた頃、ニビル惑星が地球にすこぶる接近し太陽系惑星直列が起こったのです。この惑星直列により大きな事件が起こり歴史的なものとなった。
小惑星が火星とか地球に激突した原因がニビル惑星の引力によって起こったのです。のです。
火星の環境は激変し乾燥した砂嵐の星の代になり、火星基地は潰れ地球からニビル惑星に金が運び困れるようになったのです。
火星総司令官エンキの息子、マルドゥクは地球で誕生した息子で、万物を見通す目が地球の上空に本拠地を移動したのだということです。
そこからニビル星へ直接金を運んだのです。
13000年前(史実では、5000年前。)ノアの大洪水
地球人類は地球の各々の各地で子孫を増やしていった。人間の女性とアヌンナキの若者が結婚が増え、「半神半人」が生まれていった。
こうようになると人類とアヌンナキの判別がつきにくくなる。人間と神との分別が分からなく成ります。
このような事実はエンリルには実に情けないことでした。
そのような時にニビル惑星が太陽系に遣ってくる時期で、そのニビル星が地球に近づくと色々な影響が出るのです。
その時期の南極の氷は不安定極まりない状態でした、このままニビル惑星が近づけば、その引力により氷が総崩れしかねかったのです。
そこで氷が崩れ溶け出し大洪水が起こったのでした。エンリルは人々を一掃できることとなりました。
だが、ジウスドラ(ノア)に命令してエンキは方舟ではなく潜水艇を創造させたのでした。
動物と人間を残したかったのです。
ノアの寿命は950歳、ノアの子セムは600歳、アブラハムは175歳、ヨセフは110歳で有ったとされています。
アヌンナキが地球上に建築した大都市を大洪水は壊滅したのです。43万2000年間かけて建築された大都市群や文明などを完全に無くしてしまいました。
大洪水
この頃ついに二ビ惑星が地球に大はばに近かずく時がきたのです。
その結果、急速に温暖化した地球は、隕石だらけになり、南極の氷が溶け大規模の洪水が起こり、地球は水沈することとなりました。
その時、ジウスドラ(ノア)に方舟である潜水艦の政策の仕方を教えてエンキは空中で待機し、洪水が終わることを待つことにしました。
この大洪水は43万2千年の後のことでして、今から13000年前の出来事だったのです。
7日間続いた大洪水、降雨はその後40日間降り続いたのです。
この大氾濫水により、今までの文明の遺産や構造仏は全て汚泥の下に埋没し、かの大楽園は海の中に沈んでしまったのでした。
アダムとイブから数えてノアは十代目でありました。この地の他にも、地球の各地にこの洪水の痕跡や伝説が残っているのです。
何やらそのような時様な事が地球に在ったことは間違いないのです。
1万3000年前のシュメール古文書は大洪水の前の地球に考えも及ばない巨大構造物が数知れなく在ったのでしたが、そのほとんどが大洪水にて壊され、現存している構造物はレバノンのバールベクの石床だけであります。
すべてが大洪水にて海中深く泥の下に埋もれてしまったのでした。
この時間帯は、1万3000年前であります。
史実によりましては、今より5000年前位となっているのです。
旧約聖書によりますと、ノアの方舟の後にバベルの塔の存在となります。
アヌンナキ一族が地球を脱出したのは、1万2000年前であるからバベルは、ノアの方舟1万3000年前から、1万2000年前のあいだの話になります。この1000年の間にバベルの塔の話となります。
史実ではノアが5000年前となっていますので、地球を去ったアヌンナキ一族は4000年前位となりまして、史実での4000年前にアッと言う間にシュール文明は消えてなくなるのです。
史実にも、エジプトの伝説初代王は7000年前となって居るのです。
「ゼカリア・シッチン」は曰く
人類を滅亡させる事を意図して大洪水を起こすことが決められるかも知れないのです。人類の運命の吉凶は変わりうるのです。
近年のニビル惑星の接近の現れとしてゼカリア・シッチンがいうには、戦後のUFOが数多く目られるようになったり、「グレイ」という宇宙人がよく発見されることは、ニビル惑星が接近するひとつの証と考えられると言っています。
グレイ像は、超古代シュメールでも政策されていたのです。「グレイ」という宇宙人はアヌンナキの体の細胞で作られたたと考えられるバイオロボットであり、ゼカリア・シッチンの書より抜き出したのです。(北周一郎訳)
現代はエレニン彗星が災いをもたらすといい地球に近づいているのです。小惑星や彗星を武器にしたりするのがアヌンナキは好きで、ユーホーとして使用して惑星間を移動するのが好きであります。
初めに比較的大きな惑星を引き寄せるために小ブラックホールを作り、押し進めようとして惑星を利用します。粒子ビーム加速器を使って武器とし使用し爆発を起こす、その勢いで小惑星や彗星を目標にし的に向けて投げつけるということをします。
アヌンナキは、大昔より創造と破壊を手伝わせるために人類は存在し、奴隷化するために難民である人間を入手することであるというのです。
支配地であったニビルの土地が地球なのである訳ですから、たぶんアヌンナキの中では現在も地球は植民地であると思います。
エレニン彗星を考慮して、2011年3月11日の大震災が予測されましたが、9月24日に地球に大接近する筈であった、エレニンは巨大彗星でガスと水でできており木星より大きく、地球では地獄のような出来事が展開すると目算されたため、NASAから全職員に五大湖周辺や海岸線から離れるように警告を出したのです。
だが2011年8月16日に太陽が巨大なフレアを放出しエレニン彗星に激突しました。その後、8月30日に木星が衝撃波を吐き出しエレニン彗星を粉々にしてしまいました。
偶然にも自然現象が重なったのか、何か意図が働いたのかは分かりません。
中心の核のみとなり宇宙を飛び回るエレニン彗星は、宇宙船のみとなり電波信号を発信しながら軌道を飛び続けているのです。電波はYouTubeにアップされており、古代のシュメールの言語ではなかろうかと発言されているのです。
史実での5000年前位のノアの方舟の時代だとしますと、アヌが地球を訪れたという5.750年と合致します。
アダパとティティの誕生 !!!『 エジプトの王 ラーとは !!!! 』
地球人達をエンキが覗き見していて。その時に、はたと気がついたのです。
地球人類は新しく産み育つ中で退化していたのです、だんだんネアンデルタール人的になって優れた特徴が亡くなることに気づきました。
エンキは水遊びをしていた2人の地球の女性を誘惑し、それぞれに男子と女子を1人ずつ生ませた。二人の子の名前はティティとアダパといいました。
ティティとアダパは知力が備わり理解力があり、言葉を話しし、他の地球人より寿命は長かったようです。
エンキによく似て文化人化されしと言うようになったのです。アダパ誕生にて、ニビル星人に凄い驚きを生みました。
地球人が自分達により進んだのであるように黙認された。アダパはニビル星に運ばれ、アヌにより観察されサイド地球へ返還された。
20万年前の遺跡、南東アフリカで発見
20万年前に建設さられた地球最古の古代文明が南東アフリカで発見されました。
証拠品が多数出土しました。地球全体から見ても現存する中でも最古の文明であります。
南東アフリカのマプト湾より西に150kmの所に、1500平方kmを持つ超大な敷地面積を持つ、紀元前20万年前~紀元前16万年前の最古代大都市が存在していたことが分かりました。
地理的にも特徴があり、とある伝説と完全一致するといいます。
アフリカと言えば金の最大採掘地である。この場所も金山の中に位置しています。
金と言えばあのアヌンナキ一族の事を思いださせます。
アヌンナキ一族は8万5千年ほど前
またまたアヌンナキ族と地球人が混ぜ合わされました。
それらの後にアダムとイブの子、長女サティから地球人類は続いていったのです。
このサティの子どもの系列のルマク代に、アヌンナキ族がニビル惑星からやってきた44万5000年前より数えて100シャルニビル年36万年が経った頃、今より8万5000年ほど前にアヌンナキと地球人とで又もアヌンナキ族と地球人との混雑したとのことです。
ニビル星の王子の地位を捨てさったマルドゥクは、サルニパトという地球人の女子と結婚しました。新しい土地を授けられ、エディンより出されました。
地球人であるサルニパトのご両親はニビル星のエンキメに二度も行ったことのある人でした。
マルドゥクとサルニパの間には、サトとアサルの2人の男子が誕生しました。
火星のイギギたちは、200人の集団がシャムガズという首謀者により反乱を起こし、知能の優れた地球人女性を引き付れ逃走しました。
マルドゥクと知能の有る地球人女性との婚姻が認められたから、という理由で自分たちも結婚相手を手に入れたかったようです。
イギギの200人は地球のヒマラヤ杉という場所に移動し住み就きました。
そして攫ってきた地球人の女性との間にロケット船の子供たちと呼ばれる子供たちを残したのです。
マルドゥクは、イギギを来させました。ヒマラヤ杉の場所に残ったものもいれば、子供達の中には遠い東の地、高い山々の地(ヒマラヤ山脈か? キリギスか?)へ逃げて行った者もいたのです。
約8万5000年前にアフリカや中東やヒマラヤにチリジリになって行ったと思われます。
その後の後に、この人たちの一部が時間を経て移動を繰り返しながら日本にやってきて縄文人となったと考えています。
約4万9,000年前の地球では
バタナシュという美女
ルマクの愛妻はバタナシュという名前で凄く美しい人でした。
彼女にエンキは惚れこんで、密かにバタナシュを手籠めにし子供を宿らせました。
その子は、現存する地球人とは異なった子供で、目が青く輝き、髪は金色で金髪でした。この方が西洋人のアーリア人ではなかろうかと思われます。
ジウスドラという長く明るい人生の日々という意味する名前を付けられました。
ニビル星人が地球に遣って来て110シャルニビル年である39万6千年の後に、今から約4万9000年前に金髪で碧色をした眼の人が誕生しました。
地球人のエムザラと結婚したジウスドラには、3人の男子を生みました。
現代的にいいますとクロマニヨン人という新人の誕生でありましょうか。
7世紀の622年のマホメッドもオリエンタルで有ったのではないでしょうか。
8世紀の前には、すこぶる少ない白人種とユダヤ人種の混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほぼ存在していませんでした。
マルドゥクの時代(地球人女性と結婚した時代)
現在のエジプトであるマルドゥクの土地と、バビリであるバビロニアにも征服した土地が有ったのです。
マルドゥクは地球の王になろうとした、ニビル王の子エンリルと、その子孫達とが対立をし始めたのです。
最太古のアラル時代から地球に最後の兵器である核兵器と思われる兵器がニビルより持ち込みセットされていました。
マルドゥクはこれを探索し見つけたのです。最終兵器であろう核兵器を入手して地球の支配を目算していたのです。
その一方では、エジプトにおいて最初ラーと名乗り、地球人類に私が『我が唯一神である』としたのでした、地球人類を支配下において自分が帝国の神であるとしたのでした。
バビロニアに宇宙へ羽ばたく為の飛行基地であるバベルの塔を政策し始めました。
これに堪えられなくなったエンリルとその子供達は、シナイ半島の地下に置いて有った別の最終兵器を作動さ爆発させたのでした。
その悪魔の風である爆風は偶然にもエリドゥにあった自分たちの住所地に襲いかかってしまったのでした。
地球人はエンリルの土地で死滅し、ニビル星人達は宇宙へと次々と逃げて行ったのでした。
その爆発で生じた悪魔の風はエジプトとバビリには到達せず、被害に会わなかったようです。
エジプトの初代ラーとなりマルドゥクは地球の支配者となりました。
初代のバビロニアのニムロドとしても後世に言い伝えられたのです。
約12000年前のお話であり、太古のエジプトとバビロニア人達はマルドゥクとサルニパトの子供達となります。
1万2000年前に地球から飛び去ったアヌンナキ一族
ニビル星人アヌンナキの初めの計画は、ニビル星を守る為の金のナノを取り出すという計画は達成され、ニビル星は再び元に戻りました。
そこでアヌンナキでありますネフィリム達は地球を飛び立ち、地球人達に任せ、監視し続けることとなったのです。
それらの事は、ノアの大洪水から1000年目のことでした。ノアの大洪水は13000年前位の出来事ですから、アヌンナキが地球を飛び立ったのは12000年前位となります?
5,750年前のお話
シュメールの古い文献に記されているのは5,750年前にニビルの王様であるアヌ様が地球を公式訪問なされたといいますと、惑星ニビルは地球の近くに来ていたこととなります。
ノアの方舟の時代が約13000年前位となると、ニビル星が2回やって来たとして3600年を2回分引きますと5800年位前となり話しが会います。
ニビル惑星が地球の近くに遣ってくれば、人類の運命を決定する慣例の「尊大なるアヌンナキの12人の評議会」が執り行われるのです。
そこで制定された「目的表」によって、次の3600年間の人類の歴史が決定するのです。
アブラハムの長男である「イシュマエル」からアラブの人びとが生まれ出ており、次男の「イサク」の子である「ヤコブ」からはユダヤの人々が誕生したことになります。
ヤコブの別名はイスラエルで、イスラエルの息子が12人誕生し後に十二支族と成るのです。
4000年前に、あっという間に何処かに行ってしまった。キリギスに移動したシュメール人はごく一部で、その後に日本へやって来たのではないでしょうか。
一部はアンダマン諸島より海を船で渡り、日本に遣ってきたのではないでしょうか。
大部分がヘブライ語で書かれている<旧約聖書は、3500年前頃に成立しています。>
人類の祖先ミトコンドリアイブ(女性)
ミトコンドリアDNAは必ず母親から子に受け継がれ、父親から遺伝されることはないです。つまり、ミトコンドリアDNAを調べれば、母親の母親の母親、そして母の母の母のと女性を中心な系統を遡ることができるのです。
カリフォルニア大学の教授は多くの民族、147人のミトコンドリアDNA遺伝子の塩基の並びを調べました。
すると人類の系図は二つの大きな枝にわかれ、一方はアフリカ人のみからなる枝葉、もう一つはアフリカ人のごく一部と、その他の全ての人種からとなる枝葉だということが分かりました。
これは人類に共通するご祖先がアフリカに存在していたことを表しています。
このような論理に置いても明確にされた最古代の女性に対して命名された呼び名はミトコンドリア・イブと申します。ダーウィンが考えていた「アフリカが人類の起源だという説」を納得させられる形になりました。
人類は母方の家系をたどると、約12万年前~20万年前に存在していたたった一人のアフリカ女性に行くつくのです。
アフリカで金鉱山を採掘していた(?)
アヌンナキ一族の流れ
アヌンナキの労働者としてアフリカの金鉱山で働いていたアダマの息子たち、初期の時代の地球人を思い出してしまいます。
シッチンの説によりますと、その後にアヌンナキ一族と地球人との混じり合わせによりアジア人やアーリア人などの当初の地球人類とは違う生命が誕生したわけですが、金の鉱山で労働していた当初の地球人達がアヌンナキがニビル星に飛びたった後、人類はアフリカ大陸に残りネグロイドに進化したとしたらなら、それはそれなりに辻褄が合致するように感じます。
近年、20万年前の遺跡が東南アフリカで見つかっており、その場所は金採掘の場所であるとのことであります。
アヌンナキはシュメール人が残した神話によりますと、金を入手する為に太陽系の第10惑星である『ニビル星』から地球にやってきたという。
約40万年前に当初は海水から金を取り出していましたが計画道理には行きにくく、アフリカで採掘をするのです。
ニビルでは大気と地熱が宇宙空間に流れだし、ニビル星では生命の絶滅の危機へと、その流れ出しを静止さす為に黄金のナノ粒子で惑星を覆いつくさなくては駄目になった。
ですが、ニビル星には金がなく、金を探して地球にやって来たのです。
ですが、新たな問題が発生した、ニビルから同行してきたアヌンナキの鉱夫達が反乱を起こしてしまったのです。
衰弱が泊らない母性ニビル星へ、多くの黄金ナノ粒子を早く送ろうとするアヌンナキは新たな労働力が必要となり、自分たちに似た人類を作りだすことに成りました。それが人類です。
シュメールの人々は自分たちを「混ざり合わされた者」と呼び、天文学知識や高度な医療技術や金の精製技術を「神々からの贈り物」と記しています。
海王星も1989年にボイジャーが接近した海王星のことが、シュメール文書に記されていたのは、「見た目の表面は緑青色で、水は豊富で沼地のような植物のような反転がある」と、正にその通りだったのです。
その後、アヌンナキの間の権力抗争や2度の大きな洪水により黄金の採取は終るものの、アヌンナキ達は高度な技術と人類の創造とをシュメール人達に与え、文明の発展発達を促しました。
シュメールの人達が書き記された膨大な量の粘土板を残しましたが、丁寧に解読し研究していったユダヤ人である考古学者の『ゼカリア・シッチン』は、『旧約聖書や、古代から伝承されてきた神話はシュメール文書の改訂版に過ぎない。』と語っています。
日本では !! 12万年前から4万年前 !!!『マンモスハンター』が来る前に
日本最古の遺跡
砂原遺跡12万年前、島根県出雲市多伎市にて、2009年9月29日に松藤和人教授が(同志社大学教授)を代表とするとする、発掘団が約12万年前~11万年前の地層から、旧石器の物と思われる出土品を20点発見したと発表しました。
玉随製剥片・石英で出来ている石核・小型の剥片が色々・石英塊・敲石によるハンマーストーンなどが発見されました。
入口遺跡10万3千年前、長崎県平戸市山中町の段丘状の中で開発により1999年前~2003年前の地層から平戸市の教育委員会にて緊急調査が行われ数カ所で調査が行われた、10万3000年前から9万年前と考えられる二地層より瑪瑙の石器が見つかりました。
石器類は平戸市の教育委員により1999年~2002年にかけての発掘にて出土していました。
その後、台形型の剥片が4点・嘴の石器が1点・スクレイパーが4点・ハンマーストーンが2点・礫器・石核・剥片・砕片などが発見されていました。
金取遺跡9万年前、岩手県宮守村では金取遺跡が’84年に武田良夫氏により発見されて、’85年にて金取遺跡発掘調査団が菊池強一氏を代表として本格調査団を結成して行われました。
調査によりますと、中期の旧石器時代のものの品と思われる石器類40点を発見しました。現在では、捏造の及んでいない中期の旧石器時代の遺跡として注目を集めています。
2003年では、石器が出土した最も低い下層は9万年前~8万年前に九州から北海道まで飛び散った、阿蘇4火山灰であることが分かり、中期の旧石器時代の遺跡という事が分かりました
野尻湖遺跡群4万8千年前~3万3千年前の野尻湖の湖の西の岸から南側にかけ丘陵地帯と点在する野尻の39ヶ所の遺跡と湖底の呼び名です。
その中の旧石器時代の中期の立が鼻では、約4.8万年前~約3.3万年前の地層からヤベオオツノシカやナウマンゾウなどを食べやすくしたとみられる石器骨器などの道具類などが出土し、旧石器時代での大型の獣たちを食べやすくした跡を残している遺跡は世界的に少ないため、大変貴重とされているのです。
高原山黒曜石原産地遺跡群4万年前、昭和30年代から知られていました、旧石器時代と縄文時代に高原山の黒曜石が関東地方で利用された。
2005年7月24日に単独で田村隆氏は高原山にて調べて剣ヶ峰と大入道の間の場所の斜面に多く黒曜石の角礫がありました、石器の剥片をその中に多く見けました。
その直ぐ後に石器石材研究会が調べにゆきまして、旧石器時代の石核が見つけ出され、石器も作られたことがわかりました。
効率的で知的な作業の跡が黙認されました。
4万年前には舟に乗った現存する人類、新人が海を乗り切って日本列島に遣ってき始めたと考えているが皆さんどうでしょうか。
縄文人達は北方から遣って来たのでしょうか
このような物の積み重ねによって、古い人骨からのDNAの抽出や分析が縄文人は南方からやって来たのではなく、むしろ北方からやった来たことを証明するのではなかろうか。
2009年からの研究の結果ですと、縄文人の祖先が港川人であるとする考え方に疑問を感じ無ければ成らないような事に成りました。
現在のニューギニアやオーストラリアの先住民に近いのが港川人であるというのです。国立科学博物館の海部陽介主幹ですと、本土の縄文人とは港川人が異なる団体であったのではなかろうか、5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた団体からの由来で有ります。
その後に農耕農作を持った人が東南アジア広域に広がり、オーストラリアなどに限定され、港川人のような団体となったというのです。
縄文人が南方からやって来たと言う説は揺いだのでした。
南の方から遣ってきた人間がいないということではなく、沖縄の諸々の島を通ってやって来た南の方の方々は必ずいたはずで有ったでしょう。
だが南の方からやって来た人たちが日本列島に行き、統一化された縄文人ではなく、北方から来た人達も居られたことが分かります。
マンモスハンターであるシベリアの旧石器時代の2万年前には樺太経由から北海道に来ていた可能性は高いと考えられます。
縄文人の取手の読み解きの結果を考慮すると、シベリアからやってきた人達が、関東にも下って来たことが分かります。
旧石器時代にシベリア経由で到達した ・・このルートはあったようです。
マンモスハンターが来る前は
二万年前にバイカル湖経由の方々が樺太を通り南にやってきたのは、高い確率であったと分かりました。
四万年前には日本列島に少ないが新人達はやって来ていたのではなかったか?(人骨が出なくても高い文明の跡・遺跡が見られている)となる。
バイカル湖由で遣ってきて関東に住んだと見られる縄文人が多かったとは言えるが、南方からやってきた縄文人も少いながらありました。
日本では旧石器時代・3万8千年前には刃部磨製石斧が日本とオーストラリアのみで作られており、日本では日本独自の文化が形成されていたことが見えてくるのです。。
この刃部磨製石斧は8千年過ぎた3万年前には見られなくなります。これは現存する人種以前の人類たちに磨製石器を作る知能があったという証拠なのです。
前記の4万年前の高原山の遺跡から発見された知的で効率的な作業の痕跡はこれも現存する人種以前の人類たちの仕業なのです。それとも現存する人類が4万年前には日本に渡ってきていてこれらの文化や技術を世界に先駆けて生み出したのではないでしょうか。
2万年前には日本列島がユーラシア大陸と陸続きであったという説がありますが、ユーラシア大陸と北海道は除いた日本列島は陸続きにならなかったことが分かりました。
これは衝撃的なことです。
この頃に現存する人達が日本に渡って来るには、航海無しでは来れないことがわかったのです。
北海道のみが陸続きであった?
では舟を使わないと行けない伊豆諸島や神津島で発見された黒曜石が、関東地方の後期である旧石器時代3万8千年前の遺跡で発見されているのです。
このことから日本人のご祖先様は、既に意識して航海を行っていた、そこで舟に乗って日本列島に来ることが可能だと主張する研究者が出てきました。
これについては実際に航海する研究が進み始めているのですが、にも関わらずこの時期の遺物船が見つからないため、航海にてやってきたのだという説には反対もあります。
いま現在、国立科学博物館主催で3万年前航海再現プロジェクトが行われています。
台湾より3万年前の遺跡の場所をたどり、沖縄諸島を経由して日本にたどり着くことができたという実証を掴もうとしているのです。
沖縄本島の山下洞穴からは3万2千年前の人類の化石が発見され、宮古島からは2万5千年前の人類の化石が見つかり、久米島からは2万~1万5千年前の人類の化石が見つかっています。
3万2千年前には現存する人類が沖縄で暮らしていたのです。
しかしこれらは、どれも骨の断片しか残っておらず、完全な人骨となると沖縄の具志頭村で発見された港川人の人骨が唯一なのです。
1万7千年前の港川人の人骨の分析が進むことで彼らが何処から来て、南九州にどのように繋がるのかが見えてくるのです。
港川一号の男性の人骨は身長153Cmで、小柄な熟年男性です。栄養状態は良くなく、子供の頃に栄養不足により時々成長が止まった痕跡が見られます。
上半身全体は貧弱なものの、手の大きさは現代人とほぼ同じで握力はかなり有ったようです。
また足腰はすこぶる強く野山を駆け回っていたことが読み取れます。
頭蓋骨を見ても現代人の2倍も噛む力があるなど、歯を道具として使ったのであろうという推察がされます。
この後で有ろう、沖縄の南東部に久高島が有り一番北の端にクボ―御嶺、琉球の始祖アマミキヨが降臨したと言われている、五穀発祥の地として神事が行われた。
年代は定かではないが、久高島のイシキ浜に海底の理想郷とされるニライカナイから神を載せた船が遣って来て、五穀が入った壺がたどり着いた。
このことにより農耕が始まったとされている。
このニライカナイは辰巳の方角に有ると言うのです。
この辰巳の方角東南には何もなく海底は大きく海溝となっており、さてという事なのですが、只一つ南東に海底で浅い場所が有ります。
2万年前当たりが一番海水が低く120m位低かったようです。
その浅瀬は50mくらいではないかと思われるため1万年前は島だったろうと推測される。
1万年前程に島は水没するという事で移動したのではないか、それが久高島であった。
1978年まで12年置きにイザイホーが午の年の旧正月に行われいたが今は途絶えている。イザイホーの神事の高殿御庭は巳の方角を向いており、祝女は辰巳の方角から入場する。
この建物の中には始祖シㇻタルが祀られている。
南方由来の日本人の原点がここにある様に思われる。
だが、この辰巳の方角のミライカナイと言う場所に何時頃日本人の先祖がやってきたかは分からない。
只の私の推測だが、2万年程前に大陸と陸続きの時代に、大陸より沖縄の南東部遥か沖逢に遣って来て、海沿いに住み着いたのてはなかろうか。
以後、海水が上昇するにつれ移動をして行ったのではと思っている。
日本人だけの、親切 遺伝子YAP(ヤップ)って
D1b系のYAP遺伝子、DNAで女性はXXで男性はXYですが、男性のみが受け継ぐY染色体のなかでも、YAP型という全世界的ににも珍しい遺伝子です。
このYAP遺伝子は男性のみの遺伝子で、男性のXY遺伝子に有るY遺伝子の中の遺伝子です。女性はXX遺伝子です。
国立遺伝学研究所では、各国の各人種の遺伝子AからTまで在る20のグループを調べ、黒人固有のA系統やB系統など、中央アジアではアルタイ系のC系統など、日本人とか中東のD・E系統など、中近東はJ系統であり、オセアニアや南アジアのK系統も有り、ウラル諸族のN系統と、イヌイット達のQ系統と、アーリア系のR系統が有ると分かったのです。
人類誕生の地では古いタイプと考えられるアフリカに多く見られるのですが、日本人の中に割と古い系統のD系統の人が多く存在することが分かったのです。
ハプログループDのうち、東に東にやって来て日本列島で生まれたのがハプログループD1b(D2)です。
チベット人のハプログループD1aだという人達が日本にき来て、やがてチベット系D1aから日本人のみのD1bが生まれたのでありはしないだろうか。
ハプログループD系統はYAP型のYAPハプロタイプと呼ばれています。YAPは中国人種や朝鮮人種には見ることが完全にできません。
同、D系統でもチベットのD1a(D3)系統に対して、日本人のD系はほぼ100%がD1b(D2)系統で、世界は広しと言えども日本人しか持っていない系統で有ります。固有種で有ります。
YAPでも旧ユダヤの人々の中にもE系統の方々が居られるのですが、旧ユダヤの民のイスラエルの10支族のうち、ヨセフの息子2人である、エフライムとマナセ族だけが、YAPの初めの部分を持つのです。エフライム族とマナセ族を加えて12支族となります。
D系統とE系統はかなり近くの系統で同じ祖先から生まれた同祖となるのです。
YAP遺伝子を多く維持している人達は、アイヌの方達で88%、沖縄の方達で58%、本州の東京周辺の方達では42%~58%です。
つまり、この方たちが本来の日本人です。
Y遺伝子が男性のみにしか存在しないのは、男性が持って生まれた代々受け継ぐ人間性で地域を守ろう伝統を守ろうとする頑固遺伝子で有ると思うのです。
一方、女性の遺伝子XXは男性にもX遺伝子が有ります、このX遺伝子があるおかげで柔軟に生きてゆけるのでは、どのような方達とも上手くやって行ける、しいて言うなら外国の方達とも直ぐに仲良くなれる遺伝子がXでは無いかと思うのです。
この頑固遺伝子YAPを女性が拒否したなら、日本人という人種は滅びるのではないでしょうか。
日本に代々続いてきた独特の心、YAP遺伝子の性格『人の為に自らを犠牲にする。』から出てきた「人を思いやる、おもてなし、などなど」が無くなるのではないでしょうか。
女性はその地に住んでいる男性にも合わせられますし、現代的に言うと、外人にも合うようにすることが出来るのです。
女性が主であり、男性はそこの土地の人達の伝統や人間性を守る人達という事になるでしょう。
女性性が主体で、女性性とは平和を希求する、現状維持を希求するなど平和主義となるのです。
あくまでも平和主義的な考えの持ち主で、行動もとれる人々、現実に強い人々、今現在より女性性と男性とが共に、この時代を主導する時代が来ていると思います。
このYAPを多く持って生まれた日本人の男性より教育を受けた女性は、途轍もない凄い方達が沢山おられます。私などが近づくことなど許されない凄い方々なのです。
2013年11月に、この遺伝子を見つけだしたのは、筑波大学村名誉教授の遺伝子研究では世界的権威でおられる、村上和雄博士で『YAP遺伝子とは、自己を捨て他人の為に尽くす遺伝子』と仰っています、イスラエルのエフライムは代々、親切で、勤勉で、真面目な種族であると言い伝えられています。
飛鳥昭雄氏の書に、アメリカのニューメキシコ州ロズウェルに墜落したUFOに乗っていた宇宙人で、3名お亡くなりになっておりご遺体を調べた結果、YSP遺伝子が見つかったとのこです。
『自分を捨て他人に尽くす』が基本に有り、人を思いやり、人に親切で真面目で勤勉な性格が特徴なYAP遺伝子を持つ大和民族である日本人は、大和魂より派生した武士道という誇り高き心を持ちます。『和をもって貴しとする。』であり『令和』和にしなさい、という遺伝子を持つ人達なのです。
私達は、戦いを挑まれても戦うのでなく、古代の英知によって生きなければならないのではないのでしょうか。
いざ戦うとなると、自分を捨てて戦う人達なのですから。
『アカホヤの大噴火 !!! 』 アジア人とDNAが合致しない
青森市山内丸山の山内丸山遺跡は約5500年前の祭殿に使用されたと思われる高床建築の遺跡が見つけられた、その当代の食物を蓄える庫として、また高いところに板引きの床を備えた住居も存在していたのです、土足の履物は床の上では脱いでいたようです。
水耕栽培による稲作も始められていた後が発見されています。
雲南省中国の遺跡後から発見された遺伝情報法によると。長江流域の草鞋山遺跡の5400年前のプラント・オパールの解読により、ジャポニカ種が6000年前に育てられていたとされています。
色々な人骨や遺跡調査などにて、DNA解読で分かるようになっています。
最古の文明を持つのは、日本であり最古の国家であります。
和の精神を持つ日本人は、戦って殺したりするより、人を愛すること、黙って働くこと、思いやりを大切にする日本人の精神の原点は、今から幾万年前よりの縄文期から、長く続いているのです。
東アジアや東南アジアの方達は、別の流れから生じたと思われます。
今の日本人は、遺伝子的には最も縄文人に近いのはアイヌの方々になり、沖縄の琉球の人、東京周辺の人と続きます。
歯と頭蓋骨の特徴から今の日本人は縄文人達と、弥生時代以後に大陸から遣ってきた渡来人種とまざり作られたと言われていたのですが、今回のDNAの分析の結果により国立科学博物館主管の神沢秀明研究員は『日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた。』としています。
福島県北部の三貫地貝塚で出土の約3000年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読、約30億にも及ぶこの塩基の、約1億1500万個の分析に成功しました。
東南アジアの民から大離別していた。ホモサピエンスは、4万年から5万年前にアジアに遣ってきて、以降各系統に枝分かれしたとみられます。
今回のDNA分析にて、縄文人に繋がる系統は15000年前よりも古い時代にできあがり、東アジア人や東南アジア人は別系統から出て来たと思われるのです。
遺伝的には、最も縄文人に近いのはアイヌ人達で次に沖縄の琉球人達、そして東京近郊の人々と続くのです。
沖縄にいた港川人と、縄文人は約20.000年前に同じ系統と成ります、縄文人種は東南アジアより台湾から沖縄の各島々をつたって日本にやってきた。
※港川人=沖縄県南部で見つかった約2万年前とみられる人骨。最近まで縄文人の祖先というのが定説だった。
今回のDNAの分析にて、縄文人に繋がる系統は1万8000年前よりも古い時代にできあがり、1万5000年もの長い時代を3000年前までひっそりと『縄文文明を』形成した。
1万5000年もの長きに渡り、人の為、思いやり、おもてなしで戦わず、話し合いで全てを解決してきた人々が我らのご先祖様なのです。
田名向原遺跡2万年~1万8千年前、後期旧石器時代に相模川べりに位置していたと推定されています。
1997年の調べでは建物の跡と思われる遺構が見つけ出された。
直径約10メートルの円形の範囲を円礫(川原石)で囲んだもので、中から柱の穴が12と焚き火あとが2個あわせて見つかりました。
また、大量の母岩に二回の加工後がある剥片や石核も集まって見つかっていまして、旧石器時代の人々の石器製造場所としていたことと思われます。
また、槍先形石器の石材には長野県より掘り出された物や伊豆より掘り出された物や箱根より掘り出された物の黒曜石が使用されていることから遠くの土地とのお付き合いも考えられます。
石器を成形した尖頭器193点の他、ナイフの形の石器50点位が発見されました。
季節的なサケやマス類などの集約的な漁場の近辺に半定住住居後ではないかとも思われる、建物跡は、炉跡、柱穴、外周の円礫群などをともない、確かなものは最古の日本列島の建物跡で有ります。
日本では、1万6500年前の土器が世界最古の土器として有りまして、社会的分業が行われ集落を形成し、灌漑農業のように水を農地に引くなどしての農業もやり、言語も持っていた証拠です。
中国の湖南省から出土した1万8000年前の土器が出たとのことでありますが、この土器は公にされずじまいです。本物??? 日本がその土器を見せて下さいと言うと、もうすでに盗まれた、と言っているのです、中国のことですから。
土器片に着いていた、動物の骨などの解析だということです。
分析したのは、北京大学の学者や米ボストン大学の学者の国際研究チームだとしています。
湖南省と言えば、九州の南部にて7300年前で海底火山アカホヤが大爆発をして、その後日本人が長江文明の基盤をつくる灌漑農業を教育した所の事で、この1万8000年前の土器片は本当なのでしょうか。
縄文人の遺伝子
縄文人の遺伝子の特徴が、縄文人と東アジア人とは大変違があるという研究の結果が出たのです。
縄文人類のDNAが解明された結果、日本人はアジア人や東南アジアの人々とは全く違う人種であることが分かりました。
日本人ルーツは、人類学的にも例がないので大変意味深い事柄で、海外でも大きな問題にもなっています。
アジアの人達とDNAがどうしても合致しない
福島県北の三貫地貝塚で見つかった、約3000年前の縄文人の2人の歯からゲノムの遺伝情報の解読を試してみました。
約30億個の塩基のなかで、1億1500万個の解読ができました。
現代の世界人類のDNAを調べた結果、ベトナム人達と中国人と中国南部の先住民達と北京仁とはお互いに近いDNAであることが分かるという結果が出ました。
この方々とは大きく別離していたのが、日本人である縄文人であったのです。
現生人類、ホモ・サピエンスが、アジア地域に到来したのは4万~5万年前で、そのご各系統系列に分かれたとみなされます。
今回のDNAの読み解きの結果では、1万8000年より古時代に縄文人に繋がる系統ができて、3000年前までである1万5000年の長期の時代をひっそりと縄文時代をなして来たのです。『縄文文明・縄文文化』と懐けるべきではないでしょうか。
1万6500年前の世界最古の土器が日本に存在します、此れは分業が社会的にお行われ集落を営み農地に水を引込む灌漑農業という農業がおこなわれていました。言語で話していた証拠です。
1万2600年前には栗や漆の木を栽培し、8000年前には、漆生の女性用の簪や美しく装飾された衣装を着ていました。
縄文時代の中期には、7300年前にアカホヤの地域で日本最大級の海底大噴火が起こりました。灰の層が九州の南部で1m出来ました、種子島で20~40cmの火山灰が蓄積し、琵琶湖周辺でも3~5cmの灰の層が出来ました。
宮崎県のアカホヤ地区の調べであります。特に種子島、屋久島、薩摩半島南部、大隅半島南部へは火砕流が直撃し、当時の縄文人に大打撃を与えたのであります。
この海底火山噴火は、海底火山とみられるのですが、以後500年に渡り、全植物は育たなくなりました。
縄文人は食物を獲得するために沖合にでて出漁することとなりました。徐々に北方遠くに行き一部が朝鮮半島に到着、北に移動して南下して行き中国の支那の人達である湖南省の人びとに灌漑農業という畑に水を引いて栽培する方法を教え、長江文明を作ったのです。
長江文明の人達も、武器を持たない文化の人々であり、縄文文化遺跡と同じくの高床式で農業を生活の糧とする文化なのです。
5000年ほど前のこと黄河流域にコウカソイドが移住し、長江流域のモンゴロイド人と狩猟民族である西洋風のコーカソイド族との間に長きに渡る戦が2000年もの間続き、結果として外見上はモンゴロイドで、コーカソイドの遺伝子的であるDNAを持つ支那人が誕生しました。
その人たちの言語は、語順がS+V+Cで、ヨーロッパ語族と同じとなって居ます。平和な世界を希求する支那人達は辺境の地へ逃げたのです。
日本人とそっくりなDNAの人達が中国の少数民族の中にあります。
縄文人達と同じ衣装のデザインです。その語順はS+C+Vの順です。
「私はしました何々を。」とヨーロッパ語ではなりますが、「私は何々をしました。」と日本ではなるのです。
岩宿遺跡2万5千年前、相沢忠洋は1946年にて、群馬県岩宿の関東ローム層が出ている赤土の中から黒曜石で創られた石器を発見しました。
この地層は縄文文化最古の遺物を含み、日本の考古学者の常識ではこの地層よりかなり古く、人類の遺物があるはずがないと言われていました。
相沢氏の発見した石器は大変重要とみた芹沢長介氏は当時所属していた明治大学考古学研究室の杉原壮介助教授に、これを報告して調べを行った、日本にて旧石器時代の存在がしていたことが初めて解明かされたのです。
縄文時代以前に日本におても人類が住み、組み合わせ石器と製作技術によって分類できる、いくらかの段階が有ることが解明されたのです。
2万数千年前の函館市桔梗2遺跡では、最も古いと思考出来るものが函館で発見されています。旧石器時代の品だと思われる物品が北海道にいくつも発見されています。
これらによりウルム氷期最終氷期には、アイヌのご祖先様達が北シベリアから遣って来たと考えられる用になりました。
特徴的な道具でシベリアよりきた「細石刃」が有りまして、これは人により生まれ広域的に使われたという石器がありまして付け替え用としてはもっとも小さなものです。
2万1千年前よりこの細石刃はシベリアで出土していますが、2万年前の北海道の千歳遺跡では日本においても多数発見されており最も古い物であると言います。
このような石器は、非常に繊細なおおくの石器が数多見つかっているのは、シベリアと日本だけだと言われています。
2万年前頃にはシベリアのマンモスハンターである旧石器時代の人達が北海道に樺太経由で到達していたであろうと思われます。到達していたということは非常に高いと思われるのです。
さらに分析結果を考慮すると取手の縄文人は、シベリア経由の人達が、関東にも遣って来たということが分析できます。
『YAP遺伝子 !! 』日本人の気質 !!! 日本との共通点 !!!!
縄文人の遺伝子
縄文人の遺伝子の特徴が、縄文人と東アジア人と大異デあるという研究の結果が出たのです。
縄文人類のDNAが解明された結果、日本人はアジア人や東南アジアの人々とは全く違う人種であることが分かりました。
日本人ルーツは、人類学的にも例がないので大変意味深い事柄で、海外でも大きな問題にもなっています。
縄文人の謎のお話
「東南アジア人」「東アジア人」の枝わかれする前に枝別れは始まっていたのです、ベトナム人の先祖や中国人の先祖よりさらに古い時代に『オリジナルの縄文人』は、遣ってきていて自分達の文化を創りだしました。
オリジナルの縄文人のDNAはアジア各地のどの地域にも発見さられず、完全に新しい場所から出発しています。
縄文人の出所は分からずスタートラインに戻りました。日本人が何処からやって来たのかと考えられていたラインは間違いで、分からなくなったのでありました。
日本人に関してはまったく違い、今までにおいてアフリカのクロマニオン人が登場して、世界に広がっていったルートの推測は、おおよそは分かっていましたが、日本人類だけのルートは違ったようです。
色々な国からの影響を受けて当然の日本人のDNAは違っていたのです。初めに戻ってしまったのです。
福島県北部の三貫地貝塚から約3000年前の縄文人2人の歯が出てきて、細胞核のゲノム(全遺伝情報)の解読で、約30億個の塩基のうち、約1億1500万個のとみとりが出来ました。
東南アジアの人々のゲノムとは、全く違ったものでした。
ホモサピエンスは、4.5万年前にアジアに遣ってきて、その後に各系統に分離したと思われます。
今のDNAの解読では、おおかた縄文人に繋がる系統は15000年前よりも古い時にできて、東南アジアや東アジアは別の流れから誕生したと思われます。
遺伝的には、縄文人にもっとも近いのはアイヌ人であり、沖縄の琉球人、東京周辺の人々となります。
2410年前に北海道より日本に入られたのが、神武天皇とお父様と言う話もあります。
2660年前に、神武天皇が45歳の時に東方へ行かれた。
この前に、縄文人は戦わない遺伝子YAPを持っていたと思われるので、シュメール人はかなり昔に日本に遣ってきているのでしょうか。
塩士老翁(しおつちのおじ)に尋ねられました。
「日本で一番、素晴らしい場所はどこですか。」
「日本の真ん中に、青垣である山々に囲まれた素晴らしい場所が有ります。」
正しそこには高天原より来て納めている饒速日命がおります。
「それほどに素晴らしい場所があるのであるなら、私もその場所に行ってみたいものではないか。」という事情から、神武東征が始まります。
神武天皇45歳の時、天下の統一の為、瀬戸内海を東方に進み大和平野を平定したのです。
イスラエルの北の王国が没して60年後の2660年前の旧正月、太陽暦2月11日に初代天皇となられた。
「スメラミコト」というヘブライ語は、「栄光の神を奉る」の意味であり、神倭伊波礼比古命(カム・ヤマトイワレ・ビコノミコト)といい、代々の天皇のことを言うのです。
武門の物部氏の総氏神としてまつられてきたのが、天理市に有る石上神宮でした。
神宮として名前を使っています、最古の神社で物部氏がお祭りしていてあり卑弥呼の時代の100年後くらいとのことです。
神武天皇が東征し大和にこられたおりに、天皇以下軍勢は熊野の軍勢の毒気にやられて仮死状態になられました、それを知ってかどうか高天原より魂(ふるのみたま)布都御と健御雷神様(たけみかずちのかみさま)の剣が天下され、その剣を神武天皇が持たれた時、熊野の軍勢は直ぐに討伐され,『私は何と永眠していたことか。』と言われた、その時の御剣を神として祀られているのが石上神宮で、現在も布都御魂大神のご神体として主祭神として、この剣は祀られているのです。
先祖の饒速日命(にぎはやひのみこと)という神様をお祭りしていて、豪族物部氏の氏神であるのは石上神宮に成ります。
D系統の遺伝子は、YAP遺伝子と言われています。Y染色体の中にのみ有りまして、男性が息子にと繋がるもので、女性のみしか生まれなかった家ではD系統のYAP(ヤップ)遺伝子は断ち切られるのです。
Y染色体のDNAのD系統を持つことで有名であり、このD系統は、日本人という孤島の島国と山岳チベット人の一部の人やアンダマン諸島のジャラワ族とか古代イスラエルのユダヤ人の方々の他には存在していません。古代のユダヤ人種は、モンゴロイドだったのです。
日本人の気質と共通点
自分を捨てて他人に尽くす、利他の愛という心を持っており、世界の平和を希求する。
精神文化が高く、心が豊で、欲が少なく、足るを知る、みち足りたなら貰って頂く。
戦いは嫌うがいざとなると、自己犠牲となるも死ぬまで戦い逃げるのを嫌う。
勝者のおごりはなく、相手方も尊重する。謙虚、謙遜する、自慢話は余りしない。
自分の思いは相手に分かって頂こうとするし、相手の心を察する。
相手の事を考え、お互いの心を大切にする。
おもてなしを大切にする心をもっており、親切そのものであります。
おかげさまであり、もったいない精神が宿る。
自分のアピールが下手で、表立って行いません。
道を大切にし、物事の道筋があり、礼儀を重んじる。
忍耐力があり、我慢が強く、実直である。
真面目で、勤勉で。丁寧で、冷静で、几帳面であります。
直ぐに激怒したり、無き叫ぶなどをしない。
嘘を吐くのを嫌い、嘘を言わない事を美徳だとする。
日本との共通点
言葉
シュメール語と日本語は共に膠着(こうちゃく)くっ付ける言葉です。
膠着語は、「〇〇が」「〇〇に」「〇〇をした」というように「が」「に」「をした」など言葉をくっつけます。
シュメール語も母音子音ともに書き表しますし、漢字やひらがなも混雑した書き方をします。
シュメール周辺では、膠着語や似通った表現をする言葉は仕様されていませんでした。
これ等によりシュメール人が突然現れたと考えられているのです。
皇室との関連
日本の古い言葉は、シュメール語で理解できます。
古い言葉では、天皇「スメラ(天皇)」と皇族「スメ(皇)」と言います。
それは古代のバビロニアに残る「Sumer(スメル)」と似ている。
「スメ」は、「神」をいい表しており、天皇は神という事に成るのです。
「スルメ国」は「神国」「皇国」と成るのです。
「スメラギ」は、「sumerスメル」の複数形であります。
「天皇、ミカド」は、「尊、命、ミカト」や、「ミグトMigut」が変化したもの、『神』を意味し『天降る開拓者』を意味しているのです。
これらにより、最古代の日本人の天皇様をいただき、天降った人達は、シュメールの12支族である王族と、その人民だと考えられています。
菊花紋
通称『菊の御紋』と呼ばれる、日本の天皇や皇族を表すのに十六八重菊花紋があります。
実は、この菊花紋16弁が描かれて居るものが、シュメールから出土した粘土板にも有るのです。
大分前のお話ですが、こんなことが有りました。故サダム・フセインは当時イラクの大統領ですが、バクダッドの官邸で記者会見を催した時、十六菊花紋が廃されていた腕輪をしていたのです。
それを見たヨーロピアンの記者が「日本の皇族の物と極似していますが、何か関連があるのですか?」と質問をしました。
すると、その時のフセイン大統領は「最古代メソポタミア文明の事をもっと勉強して貰いたいですね。この紋章は、私たちの先祖であるシュメール文明である世界最古の文明を築いた、王族の紋章で古代シュメール王朝時代の物ですよ。」と答えたそうです。
因みに、旭日である太陽の光を美術化したものが、古代バビロニアに多く見られる菊花紋だという指摘もされています。
国の呼び方と神話
国の呼び方、自分たちの国をシュメール人は、『キエンギ』と呼びました、それが『葦の主の国』と言う意味だったのです。
古代日本では、『豊葦原中国』(とよつあしはらなかつくに)と称していて、『豊かな葦の原の国』という意味で、『キエンギ』と、そっくりに似た意味なのです。
手水舎(てみずや)の風習があり、清めも塩や水を用い、柏手の風習もありました。
祇園祭の胴掛けは旧約聖書やギリシャ神話をモチーフとした『タペストリー』を使用している鉾もある。
タペストリーは壁掛けに使用していた室内装飾の織物でありますが、鉾も同掛けとして使用しているのです。
13歳に成る男子は日本では元服式を行居ますが、ユダヤの民は男子が13歳に成ると、バル・ミツバという行事を行っていました。
日本の神社とエルサレムの神殿の構造には多くの共通点がある。
ユダヤの星(六芒星)が家紋やデザインとして使われている。
京都丹後の元伊勢龍神社とも呼ばれる、籠神社(このじんじゃ)所用の絵馬には三つ巴の紋で、六芒星(ろくぼうせい)の中に太陽と月が書かれています。
三種の神器である古代バビロニアの『日像鏡』『月像の首飾り』は太陽と月であり、『武神のシンボルの剣』も有るのです。
この三種の神器を入れていた箱をアークと言いますが、籠神社の歌に『かーごめかごめ カーゴのナーカーのとーりーは いついつでーやある、、、、後ろの正面だーーれ』と言う歌が有ります。
籠神社(この神社)ですが、籠と書きます。この籠の中の鳥はアークの上に鳥が二羽配置されていましては値を広げ覆いかぶさるような格好で二羽が互いに向き合っています。
この鳥はいつ出てくるのかなぁ。後ろの正面だーれ、後ろに隠れているものはなにかなぁ。と言っているように聞こえるのですが。
つまりこの籠神社にはマナの壺が有るのではと思っていたのですが、そうではなくアークが隠されているのではと思うのです。
ユダヤ教や旧約聖書に出てくる、マナという食べ物は日本では真名(まな)と呼んでいます。
シナイ半島を移動中に、モーセが先導していたユダヤ人達が、食べ物が無くなり苦しんでいた時に神様が、与えた壺の中に入っていた食べ物です。
この、マナとは食べ物でこの食べ物が入っていた壺、金色のマナの壺です。
日本の神社の狛犬は、ソロモン神殿のあるイスラエルと同じように獅子が有るのです。
右手を斜め右上に、左手を斜め左下にして、クルクル回る舞踏はイスラエルにもあり、キリギス二も有り、日本へと伝承し巫女さんが見事にこれを舞うのです。
ユダヤ人は祈りをささげるときフィラクティーという黒い小さな箱を頭につけ、ショファールという羊の角の笛を吹くきます。山伏は頭の上に兜布という黒い小さな箱をつけほら貝を吹くのです。
平安京をヘブライ文字に訳すとエル・シャロームと言いますが、イスラエルのエルサレムと同じ意味なのです。
平安京(エル・シャローム)の隣に琵琶湖が有るが、エルサレムにも琵琶湖に獄似したガリラヤ湖という小さな湖があり、昔はキネレテ湖と呼ばれていましたが、訳すと『琵琶湖』になります。
古代ヘブライの立て門とユダヤの鳥居の形は似た構造をしており、赤い色は宗教的に重要な意味があり、アラム方言で『門』と言う意味でユダヤの鳥居なのです。玄関口に二本の柱に羊の血を塗らせたモーゼは『殺戮の天使』が行き過ぎるまで待てと指示したのです。
京都の太秦、今の映画村の南に大酒神社があります、以前は大壁神社だったのですが大酒明神とも呼んでいました。この大壁というのは、中国ではダビデの事ことなのです。
大きな目のシュメール人
シュメール人を模した像は、異常に目が大きく口顎ひげを多く生やしていました。
日本人は細長の目と思って居ますが、縄文系の人達の目は大きく、弥生系の方、私の親戚の近くでは隼人舞いを舞いますが、この辺りの方達は目が細いです。
沖縄の人達も、アイヌの人達も目の大きさが特徴の一つです。
初代の神武天皇の目も大きく、口ひげもかなり濃いです。
三種の神器 !!『ヘブライ語と日本語の共通語 !!!』君が代 クム・ガ・ヨワ
2014年に式年遷宮のあった伊勢神宮に特別参拝をされました天皇・皇后両陛下は、その時三種の神器のうち、勾玉と剣とをお持ちされたというニュースがあり、当時三種の神器が在ることに驚かれた方々も多く居られたかもしれません。
この三種の神器は、『八咫鏡(やたのかがみ)』と『草薙の剣(くさなぎのつるぎ)』と『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』のことであります。
しかし、古代バビロニアの三種の神器はシュメールにて、『日像鏡』と『武神のシンボルの剣』と『月像の首飾り』と同じと言っても言い過ぎではありません。
それに、天照大神と月読神は日像と月像であり、月読神は、月である暦の神様で、夜を支配されておられる神様です。日月です。
八岐大蛇は8つの首(頭)をもつ大蛇を退治した時に、『草薙の剣』を獲得したという話が有りますが、7つの首(頭)を持つ劉を退治した、シュメールの神話にも、剣を獲得したというお話が有るのです。
ここように妙な一致する事には驚きます。
これらを関連ずけると、シュメールの神から頂いたものが、日本に伝わり日本の三種の神器となるのです。
十戒の石板・マナの坪・アロンの杖が『契約の箱 アーク』に治められ、神殿に保存されて居たのです、だがはるか昔に何処に行ったのか行方知らずになってしましました。
この契約の箱が旧約聖書の出エジプト記に記されて居るのですが、日本の神輿の政策方法がよく似ているというのです。
ガド族の神武天皇が『マナの坪』を伝承されたというお話も有ります。
神器の一つの”マナの坪”が仁徳天皇陵の形(前方後円墳)に極似しているのです。
当時はマナの壺を王の権力の象徴として考えていました。
ここの部分が壺の持ち手では? 壺の上は入り口、前方後円墳としての入り口です。
これがですぞ京都の丹後地方に存在する籠神社に現存していた「真名乃壺」と名前も同じなのです。
マナの壺=真名乃壺(マナとは、ウエハースのような甘い食べ物)
陶器ではなく黄金製なのです。
此れは、あくまで ? で有りますが、まな板は食べ物の板となるのでは 。
マナの坪を伝承して、仁徳天皇陵古墳の前方後円墳はマナの坪をモチーフにしており、取ってまで付いているのです。
お伊勢様である、伊勢神宮の正宮様の地下には「十戒石板」、そして外宮様の地下には「マナの壺」が保管されていると言われています。
また「草薙の剣」は、今まで愛知県の熱田神宮にありました。
八咫鏡を拝見したという森有礼文部大臣が鏡の裏側にはヘブライ文字が刻印されていたと仰っていました。
「エフェ・アシェル・エフェ」と書かれてあったと、「我有りて、在者なり」という意味だそうです。
この文は旧約聖書の二番目の書、出エジプト記に記されている有名な言葉だそうです。
森氏は残念ながら43歳で、国粋主義者と名乗る者に暗殺されました。
八咫鏡の裏側を見てはならないと禁止されているにも拘わらず、又これを公に発表したことが、暗殺の原因とも言われています。
矢野祐太郎氏は海軍将校でありまして、伊勢神宮の宮司に情熱を持って口説き落とし、八咫鏡の裏側のスケッチを書き写したのです。
ヘブライ語と日本語の共通語録
はっけ、よい、のこった ヘブライ語では、『投げろ、やっつけろ、征服しろ。』と言う意味です。
ジャン、ケン、ポン 隠して、準備して、来い。
黙れ 沈黙を守れという意味となります。
ヘブライ語で鳥居は門を意味します。ユダヤ教では祭りの際、羊の血で門を赤く塗る風習が有りました。
ヘブライ語と日本語は、見た目も発音もよく似たものが沢山有ります。
ミカドとは天皇を言いますが、貴婦人をヘブライ語では〖Mikoto・Mikado〗と読んでいたのです。
外宮の豊受大御神の「受」(うけ・うか)は食料を意味するのはヘブライ語なのです。
京都の祇園祭の『山鉾巡行』は7月17日に行われ、祇園祭自体は1ケ月おこなわれる。
ユダヤの民の「シオン(ZION)祭り」は、京都の「祇園(ぎおん)祭り」と同じ7月17日に行われ、ノアの箱舟がアララト山に漂着した日、7月17日で、祭りは1ケ月行うようです。
“ギオン”は“ジオン”の転訛だと指摘する研究家も居られます。
京都の祇園祭りの「山車(だし)」は、この“ノアの箱舟”を象徴しており、近年後祭りが行われるように成り『大船鉾』が復活しました。
アタリ = 辺り
アンタ = あなた→京都では「あんた」といいます。
アッパレ → ほめる。
アラ・マー → どうしたとか、何を意味します。
アリガトウ → 幸せです。
アリガトウ → こううんです
アノー → 答えさせてください。
アハリト → 終わり。
イト = 糸
エッサ = 持ち上げる
エンヤラヤー= 神を賛美する。(祇園祭の掛け声です。)
オニ = 鬼は苦しめる者
カタフ = 肩
カベ = 壁
キョウ = 今日
グンダ = 軍団
グル → 団結する
グル → 回る
コオル = 冷たい → 氷
サヨウナラ → 悪魔はおい払われた
サラバ → 平安あれ
シュラ = 要塞 → 城
シュムライ = 守る者 → 侍
シュマショ = ユダヤ教の事務所 → 社務所
スケベ― → 肉体的に寝る、Hする事
ダベル = 話す → しゃべると言いました
ドケイショ = どっこいしょ → 神の御力で押す
ニホヒ = 臭い
バレル = 明らかにする→ばれる。
ハラ = 怒る → 腹が立つ。
ハーヤー = 早く → 早い
ミツ = 蜜 = 果汁 → 蜜
ヤケド = 火傷
ヤド = 腕
ヨー、イショ = 神は助ける
ワル → 凶悪者。
これほど遠距離の国なのに、500語も記されているというのは、日本ではヘブライ語を話されていたということに成ります。京都では、『あなた』のことを『あんた』と言います。
君が代 十 十二支族 そして日本へ
十支族
「ルベン族」、「ガド族」、「シメオン族」、「ダン族」、「ナフタリ族」、「アシェル族」、 「イッサカル族」、「ゼブルン族」このうち「ヨセフ」は、二人の息子「マナセ」と「エフライム」の子孫を独立させ、二つの部族を形成させた「マナセ族」と「エフライム族」で有ります。
十二支族
この十支族に加えて「ベニヤミン族」と「ユダ族」で合わせて十二支族となりました。
神武天皇は父と同行し、ガド族が一番に北海道から2410年前に日本に入った、という話をされる方もおられる。
10支族の一人の秦氏は、4018年前に万里の頂上の作成を命じられたが嫌になり、3年で中止その後に日本に入った、という話をされる方もおられる。
弓月氏もキリギスを通過して日本にやって来た。
各支族は船で九州より日本に入ったがカド族は北から入った。
全ての支族は韓国は通っていない。という話をされる方もおられる。
ヨセフの2人の子マナセ族、エフライム族(D2系統)、月氏族などが、紀元2世紀ごろにゼブルン族2万人位が日本に入ってきた。
などと仰る方も居られます。
このヨセフの家紋に、ユニコーンとライオンが描かれています。
ロスチャイルド家の家紋もそうです。
神社の前に有る狛犬は実は、角の有る狛犬と角の無い狛犬が有ります。
角の有る狛犬はユニコーン、一方は普通の狛犬で獅子と言われています。
沖縄のシーサーも同じです。
つまり、「ヨセフ」の紋章を二人の息子「マナセ」と「エフライム」が受け継ぎ、日本に遣ってきたのです。これは言いすぎでしょうか?
♬ 国歌
君がー代ーは
千代にー 八千代にー
さざれー石の
巌となーりてー
苔のーむーすーまーで
クム・ガ・ヨワ <立ち上がり神を讃えよ>
チヨ二 <シオンの民>
ヤ・チヨ二 <神の選ばれた民>
ササレー・イシィノ <歓喜せよ、のこされた民は 救われよ>
イワオト・ナリタ <神の予言は成就した>
コ(ル)カノ・ムーシュマッテ <全地に語れ>
神社に時に石柱が有り、大きな縦に長い石を建てて、周りに石を配します。石柱は”神のご神体”と呼ばれています。これを「依代」(のりしろ)と言い、神の霊がその石柱に下り降る。神聖な目標物です。
初代天皇の神武天皇も日本にて石を積み壇を設けて、神の祭りを行ったと言われています。
だが今から4千年前、古代イスラエル人に置いてもこの風習は行われていました。
ヤコブはイスラエル民族の父祖と言われていますが、石柱を立て神を祭りました。
「神がヤコブに語られたその場所に石の柱、すなわち石柱を立て、その上より葡萄酒を注ぎ掛け、またその上に油を注いだ」(創世三五・一四)と旧約聖書にしるされています。
日本においても、神社の神主さんが、時々石柱を立てて、”ご神酒”を注ぎ掛けます。
この様なお話は日本の神社の風習にも多く古代イスラエルのものと極似したようなものが多くあります。
沖縄の首里城の前には、二体の龍の柱が守ります。
バビロンの捕囚前、イスラエル人ではダビデ王国が繁栄したころ、イスラエルの栄えた時代には、イスラエルの国、全体に多神教が信仰され、国の各地の人々の家庭からは女神像や祭壇が見つかっています。
ヘブライの秘宝「誓約の聖櫃(アーク)」黄金の箱は行方不明で、モーゼの「十戒の石板」を保管するための箱で、黄金が全体に貼られていました。
『旧約聖書』の『出エジプト記』には、アーク聖櫃の作り方が克明に描かれているのです。アークの櫃の上には、2羽の天使(ケルビム)が羽を広げて向かい合って飾られているのです。
本体のアークの下には、2本の棒が通されていて移動する時に、肩にかつぎレビ族が、鐘や太鼓を奏でて歩きました。
取り付けられた2本の棒はアークから絶対に抜いては駄目だったようです。
日本の神輿も、金で覆われ飾られており、神輿の上には鳳凰が羽を広げています。
神輿に通されている2本の棒は祭りが終了した後も、棒は抜か無かったのですが、現在では、都合上保管の為抜いてしまわれる神社も有りますが、本来は抜くことが許されていないのです。
伊勢神宮暦とヘブライ暦(ユダヤ暦)と一致しています。
ユダヤ暦法をヘブライの月の算出に用いた。
その日に読まれる聖詩を定められ、祝日も儲けられています。
宇宙の創世紀元は、あるいはユダヤ紀元は、ユダヤ教にて神が全世界を創造された日となって居る西暦換算でゆきますと5761年10月7日を紀元とされる紀年法を採用しているのです。
ユダヤ人と日本人とによって提唱されているかなり古くからある説。日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。
1.古代イスラエルの民である「どこぞに行ってしまった12支族」は、日本に渡来したという説。
2.古代イスラエルの民である「どこぞに行ってしまった10支族」のみならず、「12支族」が、日本に来たという説。
3.古代日本人は、ユダヤ人の先祖であるという説。
旧約聖書に書かれているイスラエル民の12支族が、又は10支族が、大昔に大陸を移動してキリギスやチベットなどを通り日本にやって来たかもしれないという説があるのです。
また、インド洋を経由して日本に入って来たのかも知れません。
最後に
日本人は12.000万人と言われています、その半分が男性で6.000万人となりますが、男性の50%ですから日本人の1/4、世界で3.000万人しかYAP遺伝子を持っていないのです。
YAPの性格、『人の為に自分を犠牲にする』これが基本に成り、利他の愛とか真面目、優しい、嘘をつかない、人の思いを察するなどなどは、日本の心だと思います。
武士道ではないでしょうか。
此れは大和魂の一種なのではないでしょうか。
男性だけと記しましたが、YAPを持っている男性に教育を受けた女性は素晴らしい。
男性は相手の事を直ぐに考えて「そうですね。」と成りますが、女性は「嫌、そうではない。」とはっきり仰る。
ご自分の意見をしっかりと持っておられます。
女性は、こうするのですとお思いに成れば、絶対なのです。
またそうすることにより、女性は出世するのです。
男性は、人を思いやることにて、人から持ち上げられるのです。
私の知り合いや、FacebookやTwitterなどで知り有った女性は凄い人が多く居られます。
挺身低頭で有ります。
また武士の妻娘、明治の女性などに代表される方々は芯が一本も二本も通っておられます。
『若き人達よ、おやじさん達の言うことを聞いて下さい。』貴方の目の前に居られるおじさんは、メソポタミア文明のシュメール人の末裔かもしれません、宇宙人かも知れません。
男性諸氏よ、ご自分の遺伝子にYAPがあるのなら、日本人なら『人の世話を焼きましょう。意見をどんどん言いましょう。見ず知らずの他人の為に何かをしてあげて下さい。
サービス残業をさせたり、パワハラ・セクハラなどのハラスメントはしないで下さい。』
『貴方が本当に日本人なら、お金儲けだけを考えないで下さい。部下・ご近所の方達の立場になってお考え下さい。』どうかどうか、宜しくお願いします。
人類の為に、ご自分のお体を差し出されたキリストのように。
この文章は、あくまで紀元前2,000年までの粘土板に記されていることで、シッチン博士が解読されたことです。
私の心の中を、文章化したものではありません。
「最後に」の項目は、お願いです。
これからも ぼちぼち遣っていきましょう。
ひろさんサン
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